随筆・新・人間革命(243) 雪の秋田指導20年 冬は必ず春″を我らが実証  私が若き日に読み、暗誦した一詩を綴っておきたい。  これは、ドイツの有名な詩人ヘッセが、困難な時代に雄々しく立ち向かう友人たちのため に謳った詩といわれる。  「この時い時期にも、いとしい友よ、私のことばをいれよ。  人生を明るいと思う時も、暗いと思う時も、  私はけっして人生をののしるまい。  日の輝きと暴風雨とは  同じ空の違った表情に過ぎない。  運命は、甘いものにせよ、にがいものにせよ、  好ましい糧として役立てよう」(高橋健二訳) ◇  新世紀の第二年が、晴れ晴れと開幕した。  私たちは、これまでにもまして、「一人」を大切にし、励まし、勇気づけ、根気強く育て上 げていくことだ。  一人の人間革命が、どれほど偉大な力を掃出させるものか。一人ももれなく、人生の勝利 と幸福に浴し、「衆生所遊楽」の見事なる幸福の拡大を体験しゆく一年であっていただきたい。  人生は、弱気では決して勝てない。勇気ある信心が勝利なのだ。執念が勇気ある信心を涌 出する。  ゆえに、強盛な信心こそ、尽きることなき智慧と福徳の源泉となるのだ。  学会がここまで発展したのは、なぜか。  それは、学会員が、いかなる人生の苦悩や苦境にも、絶対にあきらめず、乗り越えてきた からである。  そして、逆境のなかで苦闘している人びとのもとへ、真っ先に駆けつけ、勇敢に励まし続 けてきたからである。  この精神がある限り、学会は永遠に昇りゆく太陽のごとく、無数の人間の威光勢力を輝か せていけるのだ。 ◇  「黎明の年」と銘打った昭和三十四年の年頭、ただ一人の総務であった私は、厳寒の北海 道へ向かった。  「幹部が率先して、一番、困難なところへ行くのだ」と宣言し、小樽から旭川、夕張、札 幌へと、白銀の大地を駆け巡ったのである。初めての旭川は、氷点下約一〇度の寒さだった。 しかし、地元の方々は、特別寒くはないという。普段から、どれほど酷寒のなかで戦ってお られることか!  さらに、翌年、第三代会長に就任した直後の七月には、沖縄へ飛んだ。  酷暑を心配して、反対意見もあったが、私の決意は動じなかった。  わが同志の労苦は、最も大変な時に現地へ行かなくてはわからないからだ。  これが、指導者の第一条件である。 ◇  昭和五十七年が明けて間もない、寒い一月十日、私は、秋田へ走った。  今年は、その「雪の秋田指導」から二十周年である。  当時、秋田は、九州の大分とともに、正信″を騙った、狂気のごとき極悪坊主どもの迫 害をくぐり抜けてきていた。  十二月に大分を訪問した私は、次は、なんとしても秋田に行きたかった。  「春にすれば」という周囲の声もあったが、戦いは時を逃してはならない。  常に先手、先手で突破口を開いていくことだ。  思えば、前回の訪問は、いわゆる「昭和四十七年七月豪雨」で、秋田県内に大きな被害が 出た直後であった。  私は山形まで来ていたが、地元での検討の結果、秋田で予定されていた記念撮影は中止に なった。  その時、私は決断した。  「それならば、救援に行こう! 秋田の友が、かわいそうだ。できる限りのことをして、 一日も早く立ち上がれるよう、みんなでお見舞いの真心を尽くそう」  秋田へ駆けつけた私は、救援活動の指揮をとり、大切な同志の激励に汗を流した。  それから十年ぶりの訪問である。  私は、愛する秋田に必ず福徳爛漫の春を呼ぶのだと深く決心していた。  秋田の友も同じ心であった。空港から秋田文化会館に向かう道々、あちらでも、こちらで も、健気な同志が代表して迎えてくださった。  そのたびに車を降りては、忘れ得ぬ雪の街頭座談会″となったのである。 ◇  秋田では、昭和五十二、三年ごろから、陰険な坊主らの策動が始まった。  なかでも大曲や能代の同志の悔しさは、いかばかりであったか。  坊主たちは、冷酷に言い放った。  ――学会員の家の葬儀には行かない、故人は地獄へ堕ちる、戒名はつけない、嫌なら檀徒 になれ、等々。  旧習の深い地域で、無理解の飛礫(つぶて)に耐えて、供養の限りを尽くしてきた同志を、 背後から斬りつける、あまりにも卑怯、卑劣な仕打ちであった。  しかし、秋田の友は戦った。  「汝は逆運に、決してたじろぐことなかれ、むしろ運命打ちこえて、より大胆に進むべし」 (ローマの詩人ウェルギリウス、泉井久之助訳)  秋田の無名の英雄たちは、この詩句のごとく、雄々しく勇戦し、創価の大城を守り抜いた のだ。婦人も、壮年も、頼もしき青年たちも!  この人に会おう、あの方々に会おうと動くうちに、直接お目にかかった同志は、六日間で 一万人近くに上った。  文化会館に隣接する公園で、「大秋田の英雄ここにあり!」と、吹雪に胸張るがごとく行っ た、二度の記念撮影も、本当に忘れ得ぬ思い出となった。  大曲の友も、能代の友も、真白き雪の降り注ぐなか、歓喜の渦となって、皆で勝鬨と万歳 をあげた。  今でも、あの人の笑顔、あの人の真剣な顔(かんばせ)が胸に浮かぶ。あの友らがご健康 で、ご長寿で、喜びの広宣流布の道を、朗らかに歩んでおられることを祈る昨今である。  「冬は必ず春となる」とは、大自然の流転であり、大仏法の法理だ。 ◇  五十年前、わが師・戸田先生が悲願とされた七十五万世帯への突破口を開いた、歴史に残 る蒲田支部の「二月闘争」。  この薄田支部に所属していた秋田の同志も、弘教「二百一世帯」の広宣の拡大に呼応し、 勇敢に折伏に奮い立ってくれた。  「仏縁」の拡大が、広宣流布の拡大である。  雪の秋田指導の折、私は、広布の土台たる、強い支部の建設を訴えた。 「支部に、勇気 ある同志が何百人と賑やかに集うようになれば、一千万の連帯が必ず築ける。そうなれば、 広布の基盤は、盤石のなかの盤石である」と。  さあ! 新しき前進のこの年も、変わらずにわが大道を歩みながら、多くの人と会い、多 くの友と会おう。  また多くの人と語り、多くの友と語ろう。  この快活な人間と人間との「対話」の大波が、「人間主義の世紀」であり、「創価の世紀」 である、と謳い上げよう! 2002.1.13 SP