第27回「SGIの日」記念提言         池田インターナショナル会長 池田 大作 「人間主義――地球文明の夜明け」 「自己規律」こそ21世紀の要石 悪を許さぬ精神と真の「対話」の復権を  きょう26日の「SGI(創価学会インタナショナル)の日」に寄せて、池田SGI会長は「人 間主義――地球文明の夜明け」と題する提言を発表した。アメリカでの同時多発テロに象徴 される「人間不在」の病理を乗り越え、「自他ともの幸福」を追求する地球文明建設への道を 展望している。提言ではまず、問答無用のテロという悪に対し、どう立ち向かうべきか″ という難問について、マルティやガンジーらの精神闘争を手がかりに考察。  また、仏法の中道主義、特に「十界互具論」を掘下げながら、「自己規律」の精神と、人間 性への信頼に基づく「文明間の対話」こそが、21世紀の人類の要石となることを強調してい る。  その上で、テロ対策の要締として、国連を中心にした体制づくりに言及。  「包括的テロ防止条約」や「国際刑事裁判所」の早期成立を呼びかけるとともに、アフガ ニスタン復興のために、日本が主導的な役割を果すべきと述べている。加えて、テロをなく すための方策として、「人間の安全保障」の観点から人権・貧困・軍縮の問題解決へ、世界が 一致して取り組む必要性を強調。国連「平和のための人権教育の10年」の設置や、「ジュネ ーブ軍縮会議」の運営改革などを訴えている。また、本年の「持続可能な開発に関する世界 サミット」や「国連子ども特別総会」に寄せて、「国連環境高等弁務宮」の新設や、「世界教 育憲章」の採択を提唱。最後に、アジアの平和を展望して、青年交流や女性交流、また歴史 の共同研究の推進を呼びかけている。(4回にわたり掲載予定)  21世紀最初の年となった昨年は、「戦争と暴力の20世紀」に別れを告げ、新たな一歩を踏 み出そうとする人類に、きわめて重い問いを突きつける事件が起こりました。いうまでもな く、アメリカを襲った「9・11」の名で語られる同時多発テロ事件であります。  数千人もの尊い人命を、崩れゆく超高層ビルの瓦礫の中に無残に葬り去った前例のないテ ロ行為は、いかなる大義や名分を掲げようとも、絶対に許されてはならないことであります。  国連が「文明間の対話年」を謳っていたにもかかわらず、寛容と共生の精神に基づく対話 とまったく対極に位置するテロが世界を震撼させたことは、あまりにも苦々しい悲劇でした。  しかも、あれだけの被害をもたらしながら、犯行声明ひとつ出さない匿名性、その卑劣さ は、人間であることの深部を脅かす悪魔的行為であります。まさに「文明間の対話」を標模 する世界に対する、かつてない挑戦であり、侮辱であり、揉欄以外のなにものでもありませ ん。  また今回のテロという許し難い非人道的な犯罪が、世界の人々に与えた心理的な影響も無 視できません。歴史家のアーサー・シュレシンジャー氏は、9・11以降のアメリカを「不安 と苦悶に満ちた社会」と表現しましたが、その日を境に世界は一変した″と見る識者は数 多い。  24人もの被害者を出しながら、不思議なほど当事者意識が薄いとされる日本でも、不安が 確実に増加していることは、各種世論調査からも明らかです。  巨大な塔のような高層ビルの崩壊や、炭痘菌テロがもたらした社会の混乱を、「黙示録」に なぞらえる声もあるほど、憂鬱なミレニアム(千年紀)のムードが、アメリカのみならず世 界に広がっていることは否めません。  米英両国を中心とする軍事行動によって、事態は一応の終息をみましたが、今回のテロが 社会に残した傷跡は、経済的な打撃も含め、あまりにも大きい。だからといって、テロの余 波で、時代が暗転していってしまえば、それこそテロリストの思うつぼです。テロの大きな 目的が、人々を不安や混乱に陥れ、恐怖や不信感を煽ることにある以上、断じてその脅しに 屈してはならず、それを凌駕する「人間精神の力」を湧き出すことが強く求められます。 テロ対策の視点  「闇が深ければ深いほど暁は近い」という言葉があります。しかし、新しい時代の扉が独 りでに開くことはない。悲劇から立ち上がり、それを真正面から見据えて時代変革の最大 のチャンス″に転じていくかどうかは、あくまで人間にかかっている。  今こそ、ゲーテが言っているように「人間とは信仰と、湧き立つ勇気とがあればどんな困 難な企てをも征服するものである」(エッカーマン著『ゲーテとの対話』神保光太郎訳、角川 書店)と、面(おもて)を上げ、大きく息を吸い、この困難な課題に挑んでいただきたいと、 念じてやみません。  「文明間の対話年」を暗転させてしまった凶悪犯罪――それを「文明の衝突」「文明間戦争」 という最悪の事態に立ち入らせないために、それをあくまで犯罪として位置づけていくこと が肝要でしょう。この点は後述しますが、私がかねてより「国際刑事裁判所」の設置を急ぐ べきだと主張してきたのも、テロが、本来「犯罪」として「処罰」されるべき性格を有して いるからです。  もとより「処罰」すれば済む問題ではなく、それを未然に防止し、あるいは芽″のうち に摘み取ってしまうための国際法、国際警察などの側面も、セットで検討されなければなら ない。  同時に、そうした制度づくりや予防的措置と並行して、抜本療法も進めなければなりませ ん。今回の問題をきっかけに、テロを生む土壌、背景がさまざまに指摘されました。  アフガニスタン復興支擾のための国際協力のシステムづくりも、ようやく緒に就こうとし ているのは、喜ばしい限りです。 ノーベル平和賞受賞者らの苦悩  私は、ここでは、それらの諸課題の根本に横たわっているアポリア(難問)に目を向ける ことからはじめてみたいと思います。  すなわち、問答無用の狂信的なテロに対し、どう立ち向かっていけばよいのか、匿名性の 帳(とばり)に隠れた彼らと、交渉はおろか、対話や宥和(ゆうわ)がはたして可能なのか という難問は、いまだ世界に大きな影を落としているからです。  そこには、世界平和に貢献してきたノーベル平和賞の受賞者たちの間でさえ見解が分かれ ることが象徴しているように、容易ならざる困難さが横たわっています。  昨年12月、ノルウェーで、ノーベル平和賞の100周年記念シンポジウムが行われました が、最大の焦点となったのは、テロの対抗措置としての軍事行動の是非でした。参加した受 賞者たちは、軍事行動だけでテロは根絶できないとの認識で一致したものの、軍事行動に対 する評価をめぐって、意見が大きく分かれたのです。  平和のために戦う、高い志をもった人たちの間にも生じてしまった溝――。それを粘り強 く埋め、乗り越えていく作業なくして、「平和の21世紀」は真に訪れることはないと思いま す。 問答無用のテロにどう立ち向かうか 世界の良識者らの重い問いかけ  情け容赦のない冷酷な「悪」に直面した時、「善」には何ができるのか、どう戦えばよいの か――人間の良心や善性に信を置く人であればあるほど、この困惑、ジレンマ、無力感、あ がきから免れることはできなかった。そうした負の心性が、闇のように覆い被さってくるの を、いかんともし難かったように思います。  たとえば、少年時代の一時期、ナチスの強制収容所という地獄″をくぐり抜け、文筆業 を立ち上げてきたエリ・ヴィーゼル氏は、文人らしいレトリックを駆使しながら、こう語っ ています。  「精神は強い。だが暴カには無力だ。1丁の機関銃をもったテロリストは100人の詩人、 100人の哲学者より強い。テロリストはそれを証明した」(「朝日新聞」昨年12月5日付)  「精神は強い。だが暴力には無力だ」――この言葉は、もとより反語であり、逆説であり ます。  氏は、ナチスという冷酷無比の暴力にさらされながら、なおかつ人間の精神の力を信じ、 ペンに平和への希求を託してきた。その人にして、あえてアメリカの今回の武力行使を支持 せざるを得なかったところに、困惑とジレンマが象徴されています。  また、テロの温床ともいわれる、第三世界の貪困の問題にも深い理解を示す、インド出身 のケンブリッジ大学教授のアマーティア・セン氏(ノーベル経済学賞受賞者)は、学者らし い冷静さを保ちながら、こう語っています。  「武力行使だけを見るなら適切とは思えない。しかし、9月11日に起きたことを思えば、 何らかの方法で応酬するのは十分に理解できる。罰なしにはテロが続くだろうから」(同、昨 年11月2日付)と。  「何らかの方法」「罰なしに」等と、その文脈から「武力」や「報復」といった言葉が慎重 に避けられながら、なおかつ「応酬」の必然性が強調されている点に留意すべきでしょう。 抑制の利いた語り口は、かえって当面するテロヘの対応という課題の巨大さ、困難さを浮き 彫りにしています。 報復の」連鎖″を断ち切る困難さ  そこに現代という時代を包み込む闇の深さがある。その漆黒の闇を透かして暁を望むには、 よほどの精神力を要するはずです。  報復は報復を呼ぶ″と、よく言われるように、報復が決して一回限りで終わらないとい うことは、おびただしい血をもって購(あがな)われてきた、人類の業ともいうべき経験則 です。  しかし、その経験則の超克ということは、古今東西、「モンテ・クリスト伯」や「忠臣蔵」 などの復讐譚(ふくしゅうたん)″(仇討ち物語)の根強い人気が示しているように、傍 観者の流儀と決別して当事者意識に徹してみれば、いかに重い課題となって迫ってくるか。 軽々に口にすれば、いっこうに人々の心に届かないスローガン、空語に化してしまうか―― 課せられた宿題は、あまりにも重いといわざるを得ない。  それには、たとえばバイブルのあまりにも有名なくだりに「『目には目を、歯には歯を』と 言えることあるを汝ら聞けり。されど我は汝らに告ぐ、悪しき者に抵抗(てむか)うな。人 もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ」とあるような、報復の論理″から愛の論理″ への大転換、大操作が欠かせません。  悪に抵抗するな″と、トルストイが愚直なまでに突進し、それに対し、レー二ンが激し くいささか見当外れの痛罵(つうば)を浴びせた(=注1=)ような、徹底した非暴力とい う磨きすまされた倫理規範が担保されていなければならない。  少なくとも、一度はそうした重い、ぎりぎりの問いかけに直面、あるいは想到してみる必 要があるのではないでしょうか。 無差別テロにみる「人間不在」の病理 =他者の痛み・苦しみへの想像力が欠如= 暴力のエスカレート防ぐ生命観の確立を!! ジレンマを受け止める「痛覚」  悪の連鎖の蒙昧をいうならば、すなわち、やられたらやり返すという、人間的なあまりに 人間的な情念を超えよ、というならば、トルストイがまさにそうしたように、魂の深処にお ける苦悩と葛藤、悔恨と回心のドラマの経験者にして初めて、告発者たる資格を有すること ができる――今回の無差別テロに直面して、心に強く焼き付くのは、当然のことながら、そ うした魂をもみしだかれるような、引き裂かれるようなぎりぎりの苦悩の選択を余儀なくさ れた肺腑の言でした。  もとより、私は、テロも報復も、いじめや家庭内暴力などの小暴力から、戦争という大暴 力にいたるまで、一切の暴力には、人間の尊厳にかけて反対です。  しかし、情緒的に武力行使を難じ、対話の必要性を説くだけでは、すさまじいまでの憎し み合いの深淵の前で立ちすくみ、暴力の巨大な奔流に飲み込まれていってしまいかねません。  平和が戦争と戦争の幕間劇でしかなかった人類の歴史を塗り替えるには、あるべき原点を 求め、一人ひとりが全存在をかけて自分自身をつくり替える(人間革命の謂(いい)です)ほ どの覚悟と緊張、実存的決断を要します。ユネスコ憲章のいう、心の中の平和の砦″の断 固たる構築であります。  そうした問いを万人に突きつける、それほどまでに、今回のテロの衝撃は大きかった。  何千人もの命を飲み込みながら崩壊しゆくツインタワービルのもうもうたる灰塵の背後に 浮かび上がるものは、まことに荒涼たる心象風景であり、善きもの、価値あるもの、偉大な ものは何一つ生み出さない、不毛の精神風土でした。何よりやりきれないことに、そこには、 「人間」が欠落していました。  帝政ロシア末期の一群のテロリストたちを「心優しき殺害者たち」=注2=と呼んだアル ベール・カミュは、彼らの心理を「殺害とは、必然的ではあるが、許せないもののように彼 らにはみえた」(『カミュ全集6』佐藤朔・白井浩司訳、新潮社)と描写しています。  「必然的ではあるが、許せない」――人間であろうとする限り避けようのない矛盾、ジレ ンマを真正面から受け止める、この痛覚、生命感覚であります。それが抑止力となって、テ ロという救いようのない行為に、ある種の救い(たとえば、がんぜない子どもが同乗してい たため、暴君の馬車への攻撃を思いとどまるといった)をもたらしている。  そうした痛覚、生命感覚を、同時多発テロの実行犯たちが、いささかでも共有していたか どうか、自己陶酔ではなく自己規律の心が働いていたかどうか、私は怪しみます。 他者への眼差しが欠落した蛮行  事件の直後、私は、モスクワ大学のサドーヴニチィ総長と、この問題について若干話し合 いました(月刊誌「潮」昨年11月号)。  その中で、総長が、「道徳性、倫理感覚は、あくまで個人の心に生きるもの」としたのに全 面的に賛同し、私は、まさにその「個人」が抹殺されてしまっているところに、無差別テロ の病理があるとして、こう述べました。  「ところで、こうした病理の根の部分には、『他者性』の不在という現象があるのではない でしょうか。彼らの意識、念頭には『敵』はあっても『他者』(という個人)はありません。 頭は『敵』という非人称的な観念に占拠されてしまっていて、千差万別の人相(彼らには、 民間人と軍人の区別すらない)を有する『他者』など介在する余地はない。たとえあっても、 淡い淡いバーチャルな存在でしかないのです。だから、人間の苦しみや悲しみ、痛み、嘆き などにはまったく不惑症で、あのような蛮行に走ってしまう」と。  一言にしていえば、「人間不在」ということであります。あるのは、たぎるような憎しみと 自己陶酔だけで、人間本来の体温や感触のぬくもりが少しも伝わってこない。  人間は「他者」を意識し、「他者」の眼差しの中でしか「自己」になりようがなく、その「自 他」の魂の打ち合いを通して人間は人間になっていく――人間が成熟していくプロセスとし て、いわば常識であります。  このプロセスを欠けば、人間は、いつまでたっても我が儘(まま)で自己陶酔の幼児性、 発育不全を脱することができない。カール・ヤスパースの「ひとまず相手方を認め、内面的 にためしに相手方の立場に立ちたいものである。――反対者は、真理に到達する上からみて、 賛成者よりも大事である」(『戦争の罪を問う』橋本文夫訳、平凡社)といった洞察からは、 およそ対極に位置しており、そうした自己陶酔は、憎しみや暴力が巣くい、増殖していく温 床であります。  テロリズムに凝縮される、「9・11」以後の文明社会を覆っている闇に目をこらす時、そこ にほの見えてくるのは、「自己」も「他者」も輪郭の定かでない「人間不在」という現代の悪 霊とはいえないでしょうか。  そうした心象風景の中で、対話の実をあげていくことは、容易ではありません。いうまで もなく対話は「自己」のなかに「他者」が存在して初めて成り立つものであって、「内なる対 話」は「外なる対話」が可能となるための欠かすことのできない前提だからです。  そうでなければ、言説はモノローグか、一方的な自己主張に終わってしまう。それどころ か、こうした病理が進むと、言論は暴力の一形態とさえ化しかねません。 悪を許さない姿勢が不可欠  一方、この「人間不在」という病理から見れば、テロへの対応に苦慮している僻も、対 岸の火事″視して済まされる問題ではありません。  私はテロを容認するつもりなど毛頭ない。あのような卑劣な脅しに屈したり、妥協したり すれば、かえって悪を助長するだけであって、断固たる対決の姿勢こそ根絶の大前提であっ て。あって、ある場合は、何らかの対抗措置が必要とされるかもしれません。  しかし、制空権を握った上での一方的かつ大規模、持続的な空爆の続行は、「対抗措置」の 域を超え、あまりにも禍根が大きすぎるという指摘が多い。  たしかに、タリバン政権の崩壊過程を通じて明らかにされてきたのは、豊富な資金力にも のをいわせて、アフガニスタンをのっとってしまったともいわれるような、想像を超えるテ ロ組織の巨大さでした。  その脅威を前にして、武力による対抗措置を一切排除した対応が、はたして可能だったの か――これは、世界中が否応なく直面させられた、重い、不可避の課題でした。  そして、それが複雑に入り組んだ難題であればあるほど、ゴルディアス王の結び目″を 一刀両断したアレキサンダー大王の剣のような解決策など、存在するはずはなく、また求め て得られるものではありません。先に触れた、トルストイ的な魂の遍歴を基軸にした正攻法 で立ち向かう以外にない。  憂慮されてならないのは、空爆というものの質″的側面です。  味方の人的損失が限りなくゼロに近いのに、相手には甚大な被害を与え、しかもその規模 さえ定かでないというような状況が、人間の生き死にという根本事への不感症を亢進させ、 魂の次元など、はるか遠くに置き去りにしてしまいはしないか、ということです。  まして、クラスターやデイジー・カッターなどの大型爆弾の使用は、この不感症、「人間不 在」の症状を悪化、増進させるばかりでしょう。 ドイツの将軍ゼークトの回想  私は、小林秀雄氏が、太平洋戦争中に残した「ゼークトの『一軍人の思想』について」(『小 林秀雄全集第七巻』、新潮社)という一文を想起しました。  その中に、第1次世界大戦中、ゼークトというドイツの将軍が、ヒンデンブルクのもとで ヨーロッパを転戦した時の感想を綴った文章が引用されていました。  「元来は勇敢なロシア軍が、照準の正確な我が榴弾砲(りゅうだんほう)の猛射を浴びて 周章狼狽(しゅうしょうろうばい)し、さながら恐怖に襲はれた獣群の如く褐色の大群をな して右往左往する様を熟視した私は、寧ろ彼等がこの地獄の猛火の中から一刻も早く逃れ出 づることを希(ねが)はざるを得なかつた位である。我々と雖もこの猛射を防ぐ術を知らぬ であらう、私は勝利を獲て得意であるべき時に、却(かえ)つて人間精神のこの悲惨な敗北 を眺めては慄然とし立ち竦(すく)んだのである」と。〈引用にあたっては新字に改めた〉  小林氏は、ゼークトの見ていたのは「戦争の我慢のならぬ堕落」であると評しています。  往時のロシア兵と同じく、タリバンやアルカイダの兵士も、最新兵器の猛威にさらされ、 なすすべもなく逃げまどったに違いない。その姿を目にすることなく、おそらく思いを巡ら すこともないであろう現代の戦闘において、ゼークトのいう「人間精神のこの悲惨な敗北」 の幾分かを感じ取るだけの想像力というか痛覚、生命感覚を共有し得たかどうか。  戦闘要員に限りません。新年のテレビで、ノーベル平和賞を受賞した「国境なき医師団」 の一人が、政治家は自分たちの導いた結果と遠いところに居すぎる″と難じていました。 少なくとも、そうした戦闘のあり方への徹底した自覚がもたらす抑止効果、テロへの対応の 柔軟化を期待することは不可能でしょうか。それすら、トルストイ的愚直のそしりを受ける でしょうか。  このような生命というものへの感受性の鈍磨は、ある意味で、テロとそれに対する武力行 使という、暴力の応酬にもまして、やりきれないし、不気味です。  核や生物・化学兵器などという悪魔的産物が不気味な影を落としている当節の戦争にあっ ては、人間の有する気力、精神力などは端役も端役、勝者であると敗者であるとを問わず、 そのような人間的要素(ヒューマン・ファクター)の介在する余地は、皆無に近い。  ゼークトが感じていた「戦争の我慢のならぬ堕落」は、行きつくところまで来てしまった といっても過言ではありません。「人間不在」という以外にないのであります。  たしかに、アフガニスタン国内に関する限り、テロ組織はほぼ一掃されつつあるようです。 だが、そのある意味の勝利感が、人間の美徳とはおよそ縁遠い報復の成就がもたらす情念の 焔(ほむら)の域を出ていないとすれば、報復と報復、憎しみと憎しみの連鎖を断つことは できないと思います。 仏法の十界互具の真髄は 善を顕現させる精神闘争に  私は、テロも悪いが報復戦争もよくないという、耳当たりのよい、それゆえあまり生産的 とはいえない喧嘩両成敗″論を唱えているのではありません。 真に脅威なのは、戦わなければならない相手は、一体誰なのか、何者なのか――。貧困、底 知れぬ憎しみ、そして最強の敵、「人間不在」という現代の悪霊であり、カール・ユングが「ゼ ロを一万回足したところで一にすらなりはしない。すべてはひとえに一人一人の人間の出来 いかんにかかっている。それなのにこの現代という時代は浅はかにも、数の大きさや組織の 大きさでものを考えることしか知らない」(『現在と未来』松代洋一編訳、平凡社)と嘆いた 精神病理そのものではないでしょうか。  迂遠のようでも、そこから軸足をずらすと手段が目的にとって代わり、テロ組織を壊滅さ せることが全てであるような錯覚をもたらしてしまうことを、私は深く憂うるのであります。  昨年末、アフガニスタンで事態が一段落した時、米「クリスチャン・サイエンス・モニタ ー」紙(12月18日付)の論説は、「勝利のパレードはまだ早い」として、「ビンラディンを 摘まえればよいという考えは的外れだ。捕まえて最も深い洞窟に埋めるべきなのは、ビンラ ディンという人間ではなく、彼が実行した考え方なのだ」と述べました。  まったく同感です。その点に軸足を定めておかないと、軍事的対応は、際限のないエスカ レートを余儀なくされ、悪くすると文明の衝突″さえ引き起こしかねない。テロリズムは、 軍事力を中心としたハード・パワーだけで根絶できるような単純なものではなく、ソフト・ パワーも含め、国際社会が足並みをそろえて対処していかねばならない広がりと性格をもっ ているからです。 人間主義の再興  さて、地に倒れた者は地に依って立つ――「人間不在」という闇にひそむ悪霊を駆逐(く ちく)し、「人間復興」の潮流を興(おこ)していく源泉は、何といっても人間主義(ヒュー マニズム)の哲理に求める以外にない。とはいっても、この人間主義ほど多義にわたり、あ る意味では手垢(てあか)のついてしまった言葉も少(すく)なく、社会主義的、個人主義 的、実存主義的、キリスト教的……、じつに数多くの形容がなされています。  それらの内実を吟味(ぎんみ)することは、私の任(にん)とするところではありません。 ここでは、仏教を基調とする「人間主義=中道主義」の重層構造ともいうべきものの意義、 それが現代の闇を切り裂(さ)く上でどのような可能性を持っているかという点について、 若干の考察を加えてみたいと思います。  その重層構造は「人間主義=中道主義」の内実を成す生命観、なかんずくその基礎理論で ある十界論、十界互異論に、端的に示されています。 仏教では、人間の境涯、生命状態を、最低の段階である地獄界から、餓鬼界、畜生、修羅界、 縁覚界、菩薩界と順次上っていき、仏界という最高の生命状態へと到る十段階のカテゴリー に分類しています。  個々の説明は割愛しますが、この十界論では、十界がそれぞれ個別に存在しているのでは なく、十界どれもが自らの中に潜在的に十界を内包している、互いに具えていると説きます。  つまり、今は地獄界が顕現していても、次の瞬間には、地獄界から仏界に到るあらゆる生 命状態へと転じてゆく潜在的な可能性を秘めており、同じように、他の界(生命状態)も、 一瞬として静止しておらず、変化変化の連続である――これが十界互異論です。 強る心を発条(ばね)に  十界論が、個々の界(生命状態)が単層的に分離独立している静画のひとこまひとこまで あるとすれば、十界互具論は、生命が、潜在(冥伏)から顕在(顕現)へ、顕在から潜在へ と、動画のようにダイナミックに脈動しゆく、重層構造を成しているといえます。  特筆すべきは、仏教に限らずこれは東洋思想全般の特徴といえるのですが、そうした十界 論、十界互具論が、生命を客体化し、知的な分析、操作の対象として扱うのではなく、自ら の実存の深みにおいて主体的に生きられる態のものであったということ、すなわち、「善く生 きる」というソクラテス的命題を濃密に帯びた論理であったということです。  したがって、生命は磨けば光るし、磨かずに放置しておけば、たちまち光沢を失ってしま う。  弛(たゆ)む心″に支配されれば、地獄、餓鬼、畜生、修羅といった悪のエネルギ一に 翻弄されてしまうであろうし、強る心″が堅持されていれば、菩薩界や仏界の善のエネル ギーを顕現していけるにちがいない。  そこで、「強る心」を発条に、停滞や現状の固定化を排し、次なる瞬間に備えて自らを律し ながら、善のエネルギーを薫発しゆく内なる戦い、緊張感が不可欠となってくる。その戦い を持続、習慣化することによって、善のエネルギーを生命活動の基調、基底部に据える営為 が、何にもまして肝要となってくるのであります。  これが十界論、十界互具論の梗概(こうがい)です。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   語句の解説  注1 レーニンによるトルストイ批判  レーニンが「ロシア革命の鏡として−のレフ・トルストイ」という論考の中で行 った批判。そこで、レーニンは、トルストイの思想とは次元を異にした戦略的観点から、彼 が説いた悪への無抵抗″がロシア皇帝による圧政を許し、助長してしまったと指弾(しだ ん)している。  注2 「心優しき殺害者たち」  1905年2月、モスクワで社会革命党に属するテロリストの一群が、ロシア皇帝の叔父セ ルゲイ大公に対する暗殺を実行。カミュは、この事件をモチーフに戯曲(ぎきょく)『正義の 人びと』を書き上げるとともに、『反抗的人間』の中でも詳しく論じた。