「女性の世紀」に寄せて 池田名誉会長ナイチンゲールを語る@ 「あきらめ」という言葉は私の辞書にはない 人生は戦い! 目の前の「一歩」を勝て!!   「21世紀は「生命の世紀」である。  「健康の世紀」である。  そして「女性の世紀」である。  これは、19世紀、「女性の時代」の先駆者として、道なき道を切り開いた、一人の勇気 ある女性″の物語である。 「金のお城」の「お姫さま」  一、彼女は、とても裕福な上流家庭に生まれた。  家族に愛された。皆に愛された。何不自由なく育てられた。美しい容姿に恵まれ、豊かな 教養も身につけていた。まるで、「ガラスの山のてっぺん」の「金のお城」に住む「お姫さま」 のようだった。  しかし、その「お姫さま」は、苦しむ人々を救おうと、愛する家族や周囲の反対を振り切 って、あえて「金のお城」を飛び出した。  そして、荒れ狂う時代と社会にあって、泥中に咲き出ずる蓮華のように、強く、清らかに、 誇り高く、生きて生きて生き抜いた。戦って戦って戦い抜いた。そして、後世に仰がれる偉 大な「人間愛の歴史」を築いていった。  その女性こそ、「近代看護の創始者」フローレンス・ナイチンゲールである。  こまやかな「優しい人」だった。  わが身を顧みぬ「情熱の人」だった。  菩薩のような「同苦の人」だった。  明るい、朗らかな「慈愛の人」だった。  権力を恐れぬ「勇気の人」だった。強い強い、不屈の「信念の人」だった。  生涯、「行動の人」だった。  その鮮烈な生き方は、まさに、創価学会の草創の女子部、婦人部を思い起こさせる。  そして、ナイチンゲールの生涯を思うとき、いつも私には、白樺会・白樺グループの皆さ まの姿が二重写しになって迫ってくる。  さまざまな会合や諸行事を支え、救護に徹し、厳然と同志を守ってくださっている皆さま 方の尊き献身に、私は心の底から感謝申し上げたい。  ナイチンゲールについては、これまでも折に触れて語ってきた。「女性の世紀」の開幕にあ たり、白樺会・白樺グループの方々をはじめ、婦人部、女子部の皆さま方と語り合うような 気持ちで、あらためて、私なりに光を当ててみたい。  〈ナイチンゲールについて、名誉会長は、1986年8月2日の日・米・仏・伊合同の青年 研修会等でスピーチしている〉 新婚旅行先の「花の都」で誕生  「ナイチンゲールが生まれたのは、1820年の5月12日。両親はイギリスの大資産家であ った。  彼女が幼いころ、一家はイギリス南部、ハンプシャー州のエンブリ一に邸宅を構えた。夏 はイギリス中部のリー・ハーストにある丘の上の家、社交のシーズンはロンドンに滞在した。  ロンドンはもとより、エンブリーの地域にも現在、約100人のSGI(創価学会インタナシ ョナル)のメンバーがいる。またリー・ハーストでもメンバーが喜々として活躍している。  当時、イギリスは、世界に先駆けて産業革命を成し遂げ、ロンドンは世界経済の中心であ った。  華やかなヴィクトリア王朝時代を迎えていた。  その一方で、都市の人口は爆発的に増え、貧富の差が拡大した。  貧民街の生活環境は目も当てられないほどひどく、労働者の待遇は劣悪だった。チフスや コレラなどの伝染病も蔓延した。そうした暗い影が、まばゆい繁栄の裏側にあった。  ナイチンゲールは、イタリアのフィレンツェ郊外で生まれた。  なぜフィレンツェなのか?  莫大な財産をもつ両親は、結婚直後、約3年にわたってヨーロッパを旅した。その新婚 旅行″先で生まれた2番目の娘が、ナイチンゲールだったのである。  「花の都」フィレンツェにちなんで、「フローレンス」(フィレンツェの英語名)と名づけ られた。  フィレンツェにも今、イタリアSGIの文化会館があり、社会に大きく友情の花園を広げて いる。 学は一生の力 学は世界の大道  一、ナイチンゲールの父親は、名門ケンブリッジ大学の出身。著名な哲学者のベンサムや ミルなどとも親交を結んだ一流の教養人であった。  その父親から、ナイチンゲールは教育を受けた。  母国語である英語の作文や文法はもちろん、ラテン語、ギリシャ語、ドイツ語、フランス 語、イタリア語、さらには、ヨーロッパ各国の歴史、憲政史、哲学、数学など多岐にわたっ た。絵画や音楽は婦人の家庭教師に学んだ。  それは当時の女性が身につける一般的な教養を、はるかに超えるものだった。  ナイチンゲールの吸収は自覚ましかった。プラトンやダンテ、ゲーテを、原書で、すらす ら読めたという。この若き日の深く幅広い研鑚が、後の世界市民″としての行動を支える 土台となったのである。  学は一生の力であり、世界の大道である。 幸福はどこに?  一、彼女は、家族や周囲から、愛され、賞讃され、期待されて育った。 ある時はパリの舞踏会に、ある時はイタリアの観劇にと、見た目には華やかな青春時代であ った。  そのまま、人もうらやむような結婚をし、社交界で大いに活躍し、何の憂いもない幸福″ な人生を送っていくだろう――両親はそう期待し、友人たちも、皆、そう思い描いていた。  しかし、何かが違っていた。  大人数の親族とのつきあいも、苦痛の種だった。14歳の彼女に、いとこは27人もいたと いう。そうした人たちの間で、どこに遊びに行くとか、どんな服が欲しいとか、いちいち手 紙でやりとりする。ナイチンゲールは、うんざりした。  彼女は後年、こう振り返っている。  「くだらない事柄に時間を無駄に使うのでなく、私は何かきちんとした職業とか、価値の ある仕事がしたくてたまらなかった」(武山満智子・小南吉彦訳)  ナイチンゲールの「心」は、どんな富によっても決して満たされなかった。満たされるど ころか、「内なる渇き」に苦しむようになっていった。  10代の後半から、彼女は自分自身に問いかけ続けた。 お金では「心」は満たされない…… 「価値ある仕事」を私はしたい!! 病で苦しむ人々を看護 「人を救うこと」は「自分を救うこと」  真の人生とは、どう生きることなのか? 自分がこの世に生まれてきたのは、いったい何 のためなのか? 凶作と大不況に苦しむ民衆  一、それは突然、目の前に突きっけられた。自分の世界が当たり前なのではなく、悲惨と 苦悩に満ちた世界があることを――。  1840年代のイギリスは、「飢えた40年代」といわれ、凶作と大不況に襲われた厳しい時 代であった。  22歳になったナイチンゲールは、飢えと病気に苦しむ農民たちの悲惨な姿を目の当たりに したのだった。感受性の強い彼女は衝撃を受けた。  彼女は記した。  「私の心は人びとの苦しみを想うと真っ暗になり、それが四六時中、前から後から、私に 付き纏って離れない。まったく片寄った見方かもしれないが、私にはもう他のことは何も考 えられない」(同)  さらに、ある人に対して、こう言った。  「ディナーパーティが神の威光とどんな関係があるのですか。貧乏な人々があんなに悩み 苦しんでいるのに。その苦しみも、私たちが贅沢な暮し方をしなければ、直してあげられる のに」(新治弟三・嶋勝次訳)  彼女の日記には、心の葛藤の軌跡がつづられている。  「この世で私が果たすべき仕事とは、どういったものだろう?」(中村妙子訳)  「真の人生とは、私たちの家庭のような、広い緑の牧場、静かな流れのほとりに憩う生活 ではない」(同) 娯楽ばかりを追い求める生活に、彼女は充実も興味も見いだせなくなった。 むしろ、嫌悪感すら抱き始めた。  しかし、答えは見つからない。悩むのに疲れ果て、旅に出たこともあった。 生とは、死とは?  一、25歳の夏、こんなことがあった。  彼女には、重病を患った祖母や乳母がいた。彼女が看病に当たった。  病める人を看護することで、自分自身が生き生きと蘇生していくのを感じた。  「人を救う」ことは、そのまま「自分を救う」ことでもあった。  また、ある時、一人の貧しい婦人が亡くなるところを見た。その死は、周りの人が、正し い知識をもっていないためだった。  なんて愚かな! むざむざと死なせてしまうなんて!″  生と死――これこそ、人生の難問である。  戸田先生は愛娘を亡くされ、こう書き残しておられる。  「その昔、生まれて間もない一人の娘が死んで、なやみ苦しみぬいたことを思い出してみ る。そのとき、自分は娘に死なれて、こんなになやむ、もし妻が死んだら(その妻も死んで 自分を悲しませたが)……もし親が死んだら(その親も死んで、私は非常に泣いたのであっ たが)……と思ったときに、身ぶるいして、さらに自分自身が死に直面したらどうか……と 考えたら、目がくらくらするのであった」  そして先生は仏法の道に進まれた。  「私は人生の苦労を、とことんなめつくした。だから創価学会の会長になったのだ」と語 る先生であった。  生きる苦しみ。老いる苦しみ。病む苦しみ。死ぬ苦しみ――これは、だれ人も逃れられな い。  人生の険しき山に、どう立ち向かうのか。自分が生きた証を、どう刻みつけるのか。  ナイチンゲールは言う。  「自分が打ちこめるもの、自分の能力のすべてを満足させ、それを注ぎこめるもの、意識 するとしないにかかわらず、私がそれこそ自分にとって不可欠だと感じ、憧れてきたもの― ―それを私は一貫して願いつづけてきた」(同)  彼女は、「看護」に捧げる人生こそ、わが道であると確信した。 家族の猛反対にも負けずに  一、人を救うためには、慈愛や忍耐だけではなく、「正しい知識と訓練」が必要であるとナ イチンゲールは痛感した。  私は「看護」の勉強がしたい!――25歳の冬、彼女は、家族に思い切って打ち明けた。  家族は猛反対した。  姉はヒステリーの発作を起こした。  因っている人に親切な優しい母までが、恐怖で震え上がり、怒り、泣き叫んだ。「あなたは 自分を汚そうとしている」  開明的な父でさえ、理解を示さなかった。  今と違って当時は、看護の仕事は極めて低く見られていたのである。  大体、ナイチンゲール家では、病気になれば、医者が家まで往診に来るのが通例だった。 病院といえば、悪臭が漂い、苔や黴が生えた、不潔な、忌み嫌われた場所だった。  衛生設備は整備されていない。「不道徳と下品さとを助長させる場」とまで言われたのであ る。  家族の反対に、ナイチンゲールは悩み苦しんだ。そのために病気になるほどだった。  ――せっかく見つけた生きがい″。なのに挑戦する機会さえ与えられないなんて!  彼女は、家族に知られないように、ひそかに早起きし、独学で学んだ。病院のあり方、公 衆衛生について……。そして、いつしか専門家にもひけをとらない高度な知識を真につけて いったのである。  このころ、彼女は友人に書き送っている。  「人生は呑気な楽しい休日でも、気の利いたことが記されている書物でもありません。知 識をただ与えるだけの学校でもなく、涙の谷でもないのです。それは苦しい戦い、闘争、悪 の原則との格闘です。私たちは自分の前の一歩一歩を勝ち取って行かなければなりません」 (同)  そして「諦めなどという言葉は私の辞書にはない」(武山満智子・小南吉彦訳)と記した。  人生は闘争なり!――ナイチンゲールは、断じて、あきらめなかった。 偏見や無理解にも負けなかった。  その生涯の戦いは、苦しみを突き抜け、一歩また一歩と踏み出されたのである。