「女性の世紀」に寄せて 池田名誉会長ナイチンゲールを語るB 「慈愛」を!   「励まし」を! 悩める友のもとへ!! どうすれば皆が元気になるか? 責任感から「智慧」がわく 責任回避の人間は“悪” 一番の敵は「偏見」と「嫉妬」  一、この1月、私はウクライナ共和国のコステンコ大使夫妻と語り合った。その折、クリ ミア半島の素晴らしさが話題となった。  大使は「クリミアは、地球の中でも選ばれた美しい場所″だと思います」と誇り高く語 っておられた。  その美しき天地が、激戦で血に染まった。  「クリミア戦争」である。  なぜ戦争になったのか。  ロシアの南に黒海がある。トルコとの戦争に勝って、ロシアは「海への出口」を確保した。  それを警戒したイギリスとフランスが、トルコをけしかけた。  1853年、トルコがロシアに宣戦布告した。 これがロシア対イギリス・フランス・トルコ連合軍の大戦争に発展したのである。  主戦場となったクリミア半島は、現在はウクライナにある。  連合軍側の死者は7万人、ロシア側の死者は13万人にも上ったという。  20代のトルストイが、この戦争に、ロシア軍の将校として参加していたことは有名である。  若き文豪はセヴァストーポリという最激戦地にいた。その地で、この戦争を題材に、短編 『一八五四年十二月のセヴァストーポリ』などを次々と書いたのである。 戦争は決して、勇壮なものでも、きらびやかなものでもなかった。「流血と、苦痛と、死」に 満ちていた。  人間の愚かさを目の当たりにした、この過酷な体験が、後にトルストイを「絶対平和主義」 に向かわせた一つの原体験になったといわれる。  戦火の中の青春  一、戦争で一番、犠牲になるのは、いつも、名もなき庶民である。  太平洋戦争の時、私は10代の青春だった。  私は見た。  夜中の空襲で、年老いた夫婦が、恐怖におびえながら、爆撃の中を曲がりくねりながら逃 げていった姿を。  社会的な地位もあるであろう壮年の人たちが、うろたえ、逃げまどった哀れな姿を。  私が尊敬し、大好きだった長兄も、ビルマで戦死した。その悲報を知った時の、小刻みに 震える母の背中――。  未来を楽しみにしていた若き息子を奪われ、慟哭した母が、父が、どれだけいただろう。  一体、どれだけの人が愛する夫と、恋人と永遠に引き裂かれただろう。  戦争は、あまりにも多くの民衆を不幸の底に突き落とした。  私は当時、肺病を患っていた。  お世話になった中年の看護婦さんが一言「戦争っていやね。早く終わればいいのにね」と 語っていた言葉が忘れられない。国を挙げて戦争に突き進む中、それは、とても勇気のいる 言葉であった。  今、私たちは「人間主義」へ進む。  「戦争の20世紀」を、断じて「平和の21世紀」にするために。  食糧もない 医薬品もない  一、勇ましい戦果の陰で、傷病兵が満足な治療も受けられず、次々と死んでいく――そう した様子を新聞で知ったナイチンゲールは、いてもたってもいられなかった。  彼女は、ドイツなどで看護の技術を磨いた後、ロンドンの病院で看護監督をしていた。  彼女は、ただちに行動を起こした。看護婦団を結成し、自費で戦地に向かう手はずを整え ていた。家族は反対だった。  ちょうど同じ時、戦時大臣は、看護婦の派遣を検討していた。彼女に白羽の矢を立てた。 政府の正式な依頼を受けたのである。ここで、家族の態度は大きく変わった。  ナイチンゲールは、38人の看護帰隊を組織し、戦線へと向かった。出発の時には、母親か ら、はじめて、祝福の手紙をもらったのである。  1854年の10月。彼女は34歳であった。  ナイチンゲールは、トルコにあるイギリス軍の兵舎病院に赴任した。  病院のひどさは想像を絶した。収容人数をはるかに超える患者が、所狭しと押し込められ た。食糧も水も燃料も物品も足りない。医療の必需品や医薬品にさえ事欠いていた。  あまりに不潔だった。鼠(ねずみ)や虱(しらみ)、ばい菌などが蔓延していた。運び込ま れた負傷兵は、その傷のためではなく、病院の不衛生から発生したコレラやチフスなどで亡 くなる場合も多かったという。  まことに痛ましい悲劇であった。  そのただ中に、彼女は総婦長として飛び込んでいったのである。  2年間にわたる壮絶な戦いが始まった。  看護婦が病室にも入れない!?  一、まず、彼女が直面した壁は何か。  それは倣慢な「軍医」や「将校」たちだった。  彼らは、看護婦に対して、あからさまな偏見を抱き、蔑視していた。  そもそも、彼らは男の仕事に出しゃばりやがって″看護婦など役に立つものか″と派 遣に反対していた。彼らにとって、看護婦は厄介者″だった。  待遇は、ひどかった。看護婦たちは五つの小部屋と台所に押し込められ、そこで寝泊まり した。ナイチンゲールは物置小屋だった。  医者たちには露骨に無視された。病室に入ることさえできない日が続いた。医者の許可が ないために。  何のために、ここまで来たのか……。  しかし彼女は耐えた。  彼女には「果たすべき使命」があった。  「看護というものの意義を世に知らしめるに、またとない機会が到来した」(武山満智子・ 小南吉彦訳)  「もし看護婦たちが信頼に応えて見事にその職責を果たした暁には、看護婦が世に蔑まれ るようなことは二度と再び無くなるであろう」(同)――  そう心に期していたのである。  そして、いたずらに衝突するのではなく、信頼を勝ち取っていこう″と決めた。枕や包 帯も作った。調理もした。進んで仕事を見つけては、黙々と働いた。  戦局が、さらに悪化した。負傷兵が洪水のごとく押し寄せた。ロシア兵の負傷者もいた。 病院は、とても追いつかない。  医者たちはついに、彼女に援助を求めてきたのである。  彼女は、全身全霊を注いで、看護に当たった。朝早くから深夜まで。休む間も惜しんで献 身的に働き続けた。片時も病院を離れなかった。  20時間以上という大手術に、ずっと立ち会うことも頻繁だった。  患者が重症であるほど彼女は心を砕いた。少しでも愚者の苦痛が和(やわ)らぐように手 を尽くした。瀕死(ひんし)の患者のそばには、必ず彼女の姿があった。  ある医師は、驚きと讃嘆の思いを込めて、こう書き残している。  「いかなる病気であれ、重症の患者に女史が気付かないということはまず絶対になかった。 時には、おそらくわずか一時間ほど前に入院したばかりの患者のベッドの傍に、もう彼女の 姿が見られた。驚くべきことに、こんな患者が病院に到着したことを誰も知らぬうちに、彼 女はすでに気付いているのであった」(同)  自分の目にとまった患者は、だれであれ、絶対に、孤独なさびしい思いはさせない――こ れが彼女の信念だった。  病室を見て回っては、優しく声をかけ、微笑みを投げかけ、静かに手をあてがい、一人ひ とりを励ましていった。それが、どれほどの安らぎとなったことか。  大変な時、大変なところに、いつも現れる。そんな彼女の姿に、兵士たちがナイチンゲ ールは何人もいるのでは″と思ったほどだったという。  クリミアの天使  一、彼女は患者の前で明るさを失わなかった。 どんなに忙しくても。どんなに、つらくても。  常に活気があった。ユーモアを忘れなかった。慈愛に満ちていた。  彼女の生き生きとした振る舞いや明るい声は、意気消沈した患者たちの「希望の泉」とな った。  彼女が来る前は、病院には、愚痴や罵声や悪態が絶えなかった。それがいつしか、穏やか で清らかな空気が、みなぎるようになっていった。  兵士たちは口々に言った。「もう(洒は)飲まないとあの人と約束したんだ」  「故郷に金を送るとあの人に誓ったから」  すべてナイチンゲールの励ましの力であった。  一人の女性が立ち上がれば、どれほど大きな波動が広がることか。  「クリミアの天使」ナイチンゲールは、戦争で荒(すさ)んだ彼らの「心」まで蘇生させ ていったのである。 活気 ユウモア 明るい声の人  晩年、彼女は語っている。「『白衣の天使』とは、病棟の雑役婦、もしくは掃除婦たちと変 わらず、人の忌み嫌う仕事をきちんと果たし、健康への復帰の道にある障碍物(しょうがい ぶつ)を取り除き、汚水を捨て、患者の体を洗い、しかもめったに感謝されない人たちです。 こういう人たちこそ、真の意味の白衣の天使なのです」  「厄介ばかり掛けつづけていた、怒りっぽい不平たらたらの患者が亡くなったといって、 エプロンで顔を覆って胸もつぶれんばかりに泣きくずれる、見ばえのしない看護婦は、まさ に天使です」(中村妙子訳)  仏に仕えるなら病者を看護せよ  一、私は、仏典に説かれた、釈尊の有名な説話を思い起こす。  だれからも見放された一人の病人がいた。しかし、釈尊だけは見捨てなかった。手を差し 伸べた。男の汚れた体をさすり、洗ってあげた。寝床の敷物までも取り換えた。真心こめて 看病をした。  周りの人は疑問に思った。  なぜ仏がそこまでするのか〃  釈尊は答えた。  「仏に仕えるのならば、病者を看病せよ」  病気といっても、身の病もあれぼ心の病もある。治すためなら何でもする。病者を仏のご とく思って世話をする――「人間のなかで格闘する」以外に仏道はないことを、釈尊は教え たかったにちがいない。  「ナイチンゲールのランプ」を持ち  一、ナイチンゲールの仕事は、皆が寝静まった深夜にまで及んた。  夜、膨大な量の手紙を書き続けた。  彼女は、一冬たけでも2000人もの愚者の臨終に優しく付き添った。  故人から託された遺言はもちろん、どれほど荘厳な臨終だったか、どれほど家族への愛を 語っていたか等々を、母親に、また妻に、切々と書いて送ったのである。  同苦と思いやりに満ちたその手紙は、残された家族にとって、悲しみを乗り越える、励ま しの光となった。  また彼女のもとには、兵士として派遺された息子や夫の安否を尋ねる問い合わせがきた。 それにも、一通一通、自ら返事をしたためた。  「お願いだから、もう床についてちょうだい」  彼女の体を心配する声に、ナイチンゲールは言った。「どうしてそんなことができますか?  これだけの手紙に返事を書かなければいけないんですもの」  テーブルには手紙が山積みになっていた。  「明日にすればいいじゃありませんか」  「明日は明日の仕事がありますわ」  こうして、いつも彼女の仕事は夜中の1時、2時まで終わらなかった。時には3時、4時 に及び、徹夜になることも珍しくなかったという。  深夜の巡回も、彼女の日課だった。  軍医たちは全員、自室に引きあげていた。その静寂の中、彼女は、小さなランプを掲げ、 病室から病室へ、丁寧に見て回った。それは、来る日も来る日も続いた。  こうした献身の振る舞いは、兵士たちが本国に送った手紙を通して知られた。イギリスは もちろん、世界に感動を広げていったのである。  アメリカの詩人ロングフェローは一詩を捧げた。  「見よ、悲惨のきわみのとき/ランプを手に歩む女性の姿あり。  薄暗がりの中を病室から病室へと/静かにゆっくりと彼女は進む。  さながら至福の夢の影のように/おもむろに過ぎ行くその姿。  声を忍んで苦しみにえている患者は/暗い壁に落ちるその影に/せめてもとくちづけする のだった」(中村妙子訳)  深夜の巡回も、手紙の労作業も、だれに言われたものでもなかった。総婦長としての使命 感、責任感の発露であった。  「平和の21世紀」を断じて!! ナイチンゲール  戦争の時の大惨事の再発を  食い止めるために  少しでも貢献できたなら  私は勇敢な死者たちに  顔向けできます  彼女は「責任をもつ」ことを大切にした。  たとえば、大きな事故も、小さな原因から起こる場合が多い。  彼女は言う。「そのような事態に至った理由は明白で、『責任をもつ』とはどういうことか を、あるいは責任者が《誰》であったかを、誰も知らなかった、ということにつきる」(薄井 坦子・小玉香津子・田村真・小南吉彦訳)  「人間の言葉のうちで『私は知りません』ほど情けない言葉はありません」(中村妙子訳)  彼女は自分が為すべきこと″が、常に明確だった。  深き責任感が、智慧を生む。力を生む。自分の境涯を大きくしていく。  広宣流布の役職も、単なる肩書などでは決してない。「責任職」が学会の誉れの伝統である。  請求書も書いた読書室も作った  一、劣悪な環境で、増える一方の傷病兵。その看護だけでも大変なのに、病院の管理と運 営の一切が、実質的に、彼女の一身にかかっていった。  それは過酷を極めた。調理、洗濯、掃除、訪問者の応対も彼女がした。膨大な量の慰問品 の記録や礼状、物品の請求書、公式の報告書に至るまで、すべて自分の手で書かねばならな かった。  クリミアでの活動について、彼女は、こう述べている。  「今や看護は、私に求められている仕事の申で、ほんの一部を占めるにすぎません」(武山 満智子・小南吉彦訳)  食糧の手配や患者の衣服の用意、こまごまとしたものの調達まで、彼女は私財をなげうっ て奔走した。  新たに調理室も開設した。兵士のために読書室や学校も設けた。さらに、医学の研究のた めに、解剖室などの施設も、彼女の提案で設置された。  彼女がいなければ、病院は完全に機能を停止したであろうと言われた。  まさに、獅子奮迅の活躍であった。  やる気のない人間に邪魔された  一、どうして、ナイチンゲールが、ここまで一人で重荷をかかえなければいけなかったの か。  彼女は本国の協力者に手紙を送った。  「ここにおける真の屈辱、真の辛苦ともいうべきは、紳士でもなければ教養人でもなく、 また実業家でさえなく、ましてや思いやりもなく、ただただ責任回避と保身しか念頭にない ような人間たちを相手に、何とか仕事を進めて行かねばならぬというところにあるのです」 (同)  病院には、いたるところに無責任な体質がはびこっていた。  現場の最高責任者の軍医長官からして、左遷された″という思いでクリミアに赴任して いた。  やる気のない無責任な彼は、「病院の施設は満足な運営状態にあり、物品も足りている」と 本国に報告していた。  それが、ナイチンゲールによって実態が暴露されたのである。  彼女は、本国の政治家たちに対しても、言うべきこと、非難すべきことは、堂々と言った。 彼らを味方にして、病院の改革を次々と成し遂げた。  女性が戦争や医療にくちばしをはさむことを良しとしない、古い体質の人間たちも、彼女 の強い意志と行動に「ナイチンゲール・パワー」と呼んで舌を巻いた。  現場の軍医長官は、そんなナイチンゲールの存在が妬ましかった。彼女の行動を、ことご とく邪魔して、手段を選ばず攻撃してきた。  クリミアの軍当局も、傷病兵のために真実を厳しく訴える彼女を敵視した。本国で彼女へ の賞賛の声が沸き起こり、それが彼らの耳に入ると、ますます陰湿な圧迫を加えてきたので ある。  ナイチンゲールはつづっている。  「ここにいる役人たちの中に、できれば私をジャンヌ・ダルクのように焼き殺してやりた いと願わない者はひとりもいないでしょう。しかし国民が私の味方であるために、陸軍省も 私を追い出せないということを、彼らもよく承知している――これが私の置かれた立場です」 (同)  牧口先生は、「悪人の敵となり得る勇者でなければ、善人の友になり得ぬ」と言われている。  本当に正しい戦い、善の戦いを貫けば、必ず、悪人たちから妬まれる。 憎まれる。迫害される。 これが歴史の常である。  それを悠然と、また厳然と乗り越えていく者だけが、真正の勇者であり、人間の勝利者と なる。  猛反対していた家族も協力者に  一、ナイチンゲールは、こまやかな配慮の人だった。  一緒にクリミアに派遣された看護婦たちは、多くが経験不足だった。もともと足手まとい と言われても仕方ない彼女たちだった。しかしナイチンゲールは、心から尊敬し、大切にし た。  イギリスにいる母親や姉に頼んで、看護婦たちの家族を訪問して励ましてもらった。  ナイチンゲールが看護婦になることを、あれほど忌み嫌っていた母や姉が、彼女のために 喜んで協力してくれるまでになったのである。  ナイチンゲールは、自らも直接、看護婦たちの家族に手紙を書いて、近況を伝えてあげた。  わが同志が戦いやすいように、ナイチンゲールが、陰でどれほど心を砕いたことか。  しかし、それもわからず、規律が厳しすぎる″帽子が気に入らない″などと言って去 っていく人もいた。  やりたい仕事をさせてもらえない″と文句を言う人もいた。そのうえ逆恨みをして、「ナ イチンゲールが故意に人々を餓死させている」などと、とんでもない中傷のデマを本国に流 す人間さえいたのである。  新たに第2陣の看護婦隊がやってきた時のことである。  そのリーダーの女性は、ナイチンゲールに、あからさまに対抗しようとした。  自分のほうが上手にやってのけられる″ことを示そうと躍起になり、撹乱し、妨害した。 ナイチンゲールの名声に対する妖妬であった。  ナイチンゲールは、嫉妬する人間は「他人よりもむしろ自分を傷つけている」と見抜いて いた。  実際、その女性は、他の病院の現場に置かれると、何もできず、パニックになった。自分 たちの手を汚すことを拒み、おびただしい傷病兵が死んでいった。彼女は、病院を統率でき ず、すごすごと帰国したのである。  助けた人から 攻撃された  一、ナイチンゲールの奮闘のかいあって病院は立ち直った。すると、役人や医者たちは、 たちまち恩を忘れ、彼女をないがしろにし始めた。これまで彼女の意見に耳を傾けてきたの に、相談することを避けた。  それどころか、彼女を非難した。ナイチンゲールと一緒にきた看護婦たちが物品を浪費 している″と、何の根拠もないウソを言い立てたのである。四面楚歌だった。  さらに、深刻な事件が起こった。  ナイチンゲールは、ある女性を慰問品の倉庫番にした。ところが彼女は倉庫から、かなり の量の物品を盗んだのである。  ナイチンゲールは、彼女のために、事を荒立てないようにし、そっとイギリスに帰国させ た。  しかし、彼女は慰問品をナイチンゲールが私用に供している″などと騒ぎ立てた。なん と、訴訟まで起こし、自分の罪をナイチンゲールになすりつけようとした。恩を仇で返した のである。  あきれ果てた愚行であった。  しかしナイチンゲールは、何があっても一歩も引かなかった。悲嘆に暮れることもなかっ た。  それは、わが子のごとき傷病兵たちのことを忘れなかったからである。苦しむ人を守り、 救っていく″自らの使命を、一瞬たりとも忘れなかったからである。  無実の罪で訴えられたナイチンゲールの清廉潔白は、歴史が証明した。反対に、その女性 の卑しい人間性は、後世の人々から笑われる永遠の汚点となった。 命をかけて使命の道を 「私の味方は民衆」  「生死の境」でも戦いをやめない  一、ナイチンゲールは、砲弾が飛び交うような前線にも行った。病院を訪れ、塹壕(ざん ごう)にも行った。  その最中、彼女が倒れた。恐ろしいクリミア熱で。それまでの辛労が一気に噴き出したか のようだった。  心身の消耗は限界を超えていたのである。  彼女は危篤に陥り、一時は医者もあきらめた。  その知らせを聞き、病院の傷病兵たちは壁に向かって号泣したという。  2週間以上も生死の境をさまよった。自らの命が断崖のふちに立つ中でも、彼女は戦いの 手を止めようとしなかった。熱でうわごとを言いながらも、ペンを離さず、命令書や伝票を 書き、手記を書き続けたという。  働くことが、戦うことが、体の奥の奥まで、染みついていた。  戦い続ける不屈の執念のゆえであろうか――彼女は奇跡的に回復した。  しかし、酷使し続けた彼女の体は、もとの健康体に完全にはもどらなかった。リウマチや 座骨神経痛などにも悩まされ、再入院せざるを得ない状況に陥った。それでも、帰国を勧め る声に耳を貸さなかった。  彼女は悠然と語っている。「クリミア熱、赤痢、リウマチなど、今や私はおよそこの風土が もたらす病いのすべてを経験しましたから、もう自分の身体はこの気候風土に完全に順化さ れ、兵士たちとともにこの戦いに耐え抜く用意ができたと信じています」(武山満智子・小南 吉彦訳) 1856年3月、パリで講和条約が結ばれ、クリミア戦争は凝結した。  ナイチンゲールは、看護婦たちの帰国後の仕事の世話までした。一人として「古靴のよう に捨ててはならない」との信念からだった。  他の看護婦たちは次々と帰国した。しかしナイチンゲールは、「看護婦が何かの役に立つか ぎり」留まり続けた。その年の7月、最後の患者が病院を去るまで、任務を全うした。  彼女が帰国したのは、翌8月だった。最後の最後まで責任を果たし切ったのである。  戦い抜く人生は美しい。前に進み続ける人生は、すがすがしい。  彼女の行動は「大きな願い」に貫かれていた。 ゆえに、くだらない嫉妬や愚かな人間模様など、悠々と見おろしていた。  私どもの目的は「広宣流布」である。  その大目的の柱さえ不動であれば、人生、何があろうと、ぐらつくことはない。  ナイチンゲールは、多くの青年の無念の死を思った。帰国後、彼女は、生命と健康を守る、 新たな戦いに立ち上がった。  彼女はつづった。  「もし私があのとてつもない大惨事の再発を一部でも食い止めることに、ほんのわずかで も貢献できさえしたら、私はあの勇敢な死者たちに対して顔向けできたでしょう」(助川尚子 訳)  この8年後、1864年に、スイスのデュナンによって「国際赤十字」が発足した。その原 点はクリミアでのナイチンゲールの看護にあったとされている。 (つづく)