随筆・新・人間革命(250) 2002.2.21 「青森の世紀」の開拓 滝の如く悠然と流れ征け! 人間革命の清流が社会を改革  有名な中国の魯迅先生の言葉に、「まず自己変革があって、それから社会変革、世界変革に 及ぶのでないとまずい」(竹内好訳)とある。  まったく正しいと私は思う。一人の人間の革命があって、それから、社会の変革、すなわ ち社会の繁栄、世界の平和ができあがるのである。  「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに 全人類の宿命の転換をも可能にする」――小説『人間革命』のテーマに掲げた、この方程式 は断じて正しいと、私は自負している。  東北にゆかりの深い魯迅先生が日本に留学してより、今年の四月で百周年となる。光栄に も私は、北京魯迅博物館の名誉顧問を務めさせていただいている。また、子息の周海嬰氏と も、深き友好を結んできた。 ◇  仏法は本来、ダイナミックな「変革の思想」である。  森羅万象、一つとして変化しないものはない。その生々流転を、断固として「善」の方向 へ動かし、勝利と幸福の人生へ変えていく哲理が日蓮仏法である。  人は変わる。いな、必ず善く変わることができる。  環境も変わる。いな、必ず善く変えることができる。  法華経の宝塔品に説かれる「三変土田」も、仏法の変革の原理の一つだ。  それは、法華経の会座において、三度にわたって国士が変じて浄土となったことをいう。 仏法の眼から見れば、国土といえども、固定的なものでは決してないのである。  また、人間自身の内面世界を浄化していく時、同時に、外なる環境をも浄め、変えること ができる。  ゆえに、自己の人間革命に挑み、広宣流布に立ち上がった獅子がいるところ、必ず、環境 と社会の変革の大波も起こしていけるのだ。 ◇  東北の冠たる青森は、古来、冷害や凶作などに苦しんできた。歴史を紐解けば、江戸時代 には、数万人もの餓死者を出した大飢饉に、幾度も襲われている。  また、昭和四十六年も、春から異常低温が続き、三十年ぶりの大冷害に見舞われた。  青森では、ちょうど、稲の苗代作りやリンゴなどの花の受粉の時期と重なり、被害は甚大 だった。その苦境のなかで、希望の信心を胸に、黙々と、懸命に頑張っておられる、わが同 志たちのことを思うと、私は、いてもたってもいられなかった。  六月十二日の昼、私は北海道の函館から、連絡船「羊蹄丸」に乗り、青森に向かった。  私は、青森に着いたら、せめて代表に差し上げようと、船のなかで、励ましの言葉を次々 に認(したた)めていった。移動の時間も、一瞬も無駄にはできなかった。 ◇  思えば、青森の歴史には、多くの開拓の勲が刻まれている。 明治期、荒屋平(七戸町・十和田市)の開拓に尽力した工藤轍郎も、あらゆる苦難を克服し、 三百八十数ヘクタールもの開墾地を現出させた不届の闘士である。  水を引くためのトンネル工事の失敗、度重なる不作、日露戦争による不況、戦地への出征 による労働力不足や資金難等々、幾多の困難を乗り越えながら、ついに偉業を成し遂げたの であった。 これも、ただ一筋に「農民のため」という信念と大情熱があったからだ。  数年前、地元紙の「東奥日報」に掲載された評伝によると、彼、工藤はこう詠んだ。  「照るにつけ降るにつけても思うかな 田面の水の程はいかにと」  雨が降ろうが、晴れようが、自分が開いた水田のことが、片時も脳裏から離れなかったの であろう。  この民衆に尽くした偉大な先駆者の決意と心情は、私たちにもよくわかる。いかなる分野 であれ、一心不乱ともいうべき戦いなくして、壮大なる開拓は決して達成されるものではな いからだ。 ◇  これらの先人たちの素晴らしき開拓魂を受け継ぐ、わが青森の同志たちは、意気揚々と、 私との記念撮影に集って来てくださった。  その数、約三千人。青森での二日目のことであった。 会場は、市内の青森山田高校の体育館。昭和三十三年の秋にも、私が指導会をもった懐かし い場所である。  記念撮影の時、私は、心から冷害へのお見舞いを申し上げながら、大切な青森の同志に強 く、強く訴えた。  「どうか、仏法に説かれている三変土田″の原理で、雄々しく、この困難を乗り越えて ください!」  私の言葉に、青森の勇者たちの頬が紅潮した。  私たちは大丈夫です!冷害なんかに絶対に負けません!″  神々しき皆様の決意みなぎる笑顔が、あまりにも美しかった。私にとって、一生涯忘れる ことのできない場景である。  いかに環境が厳しくとも、断じて挫けるな!  心が負けなければ、必ず希望はある。必ず道は開ける。  この負けじ魂″こそが、我らが青森の不滅の精神であることを知った。 ◇  翌十四日の心が晴れわたるような朝、地元の同志の方々と共に、あの美しき奥入瀬の渓流 を、少々、散策させていただいた。  奥入瀬渓流は、十和田湖から発し、蔦川と合流するまでの約十四キロの清列な流れである。 急流あり、緩流ありと、千変万化の美を織り成している。  幅二十メートル、高さ七メートルという最も大きい銚子大滝″を過ぎ、少し下ると、ま た幾つも滝が現れる。奥入瀬全体で、十四の滝があるという。  白糸の滝″には、手にしたカメラを向けた。当時は、写真を撮り始めて間もないころで あった。  自然の幾百千の歴史が織り成す、あまりにも美しい不思議な絶景に、私は深き感動を覚え た。こんな素晴らしいところが日本にあったのかと驚いた。  冬には、幾百年も変わらず積雪を背負うこの地も、夏になると、それはそれは深い緑の木々 が輝き、奥入瀬の清列な流れの行進を、林立して見守っているように思えた。  水音は、音楽のごとく、名曲のごとく響いて、一瞬の停滞もよどみもない。常に、別世界 を思わせる清新な水流がほとばしる。  私には、真剣に希望に燃えて今日も生き抜く、純粋な青年の姿を見る思いがしてならなか った。これほどの気持ちのよい光景は少ない。 ここに戸田先生がいらっしゃつたら、嬉しそうに「青年はかくあれ!」と語ってくださった であろう。  御書には、「水は昼夜不退に流るるなり少しもやむ事なし、其の如く法華経を信ずるを水の 行者とは云うなり」(八四一n)と仰せである。  このあと私は、奥入瀬から、次の訪問地である仙台へと向かう途次、急きょ、八戸会館に 立ち寄った。 そこに、二百五十人ほどの同志が待っていてくださったからだ。  私は、この方々の幸福と、希望に燃えゆく人間革命のために、指導に来たのだ。決して遊 びではない。自分には深い責任感がある。  指導に手抜きや情性があっては、ずる賢い指導者と、大聖人から叱られる。  真剣に戦っておられる同志に、真剣に応えるのが、私たちの責務だ。  「月月・日日につより給へ」(御書一一九〇n)と仰せの通り、私も、また創価学会も、こ の間断なき戦いで勝ってきたのだ。 あの滝の響きは、一瞬一瞬を勝ち抜いた、王者の勝鬨のように思えた。 ◇  後日、私は、奥入瀬の滝に寄せて、一詩を詠った。  滝の如く 激しく  滝の如く 摸まず  滝の如く 恐れず  滝の如く 朗らかに  滝の如く 堂々と  男は  王者の風格を持て  この滝の詩″が生まれてから三十年――。  わが青森の同志の前進は、目を見張るばかりだ。  昨年の十一月、弘前の県武道館で盛大に開催された青年文化総会も、見事であった。  青森の後継の英雄たちは、吹雪にも、寒風にも、雄々しく胸を張って、来る日も来る日も、 勇敢に戦い抜いてくれている。  本年は、百九十九人が犠牲になった、あの痛ましい八甲田山の雪中行軍遭難から百年とな る。  その一月末、豪雪で立ち往生した列車に乗り合わせた、わが青森の創価班・牙城会の若獅 子たちが、乗客の方々のために不眠不休で献身的に奮闘したことが、爽やかな話題となった。  雪が降りしきる道路でも、牙城会の勇者たちは、あるバスがエンジン故障で動かないと聞 くや、現場に駆けつけ、凍える乗客を救助した。  こうした気高き英姿を目の当たりにした人からは、「何と素晴らしい青年たちか!」と感嘆 の声が上がり、全国にも電撃的な感動を広げたのである。  いよいよ青年の世紀だ。  それは、青き人材の森――「青森の世紀」である。  見よ! その開拓に汗する君の腕から、創価の賢者たる青森が輝き始めている。