随筆・新・人間革命(254)  2002.3.8 「釈尊の対話」に学ぶ 正義を語れ叫べ 人間の中で!  世界の最高峰エベレストに初登頂した一人である、ネパールのテンジンは、こう語ったと いう。  「山には友情がある。山ほど、人間と人間を結びつけるものはない」  そして、世界の指導者たちよ、山々をめざしながら対話せよ、と訴えたのである。  御書には「須弥山に近づく鳥は金色となるなり」(一五三六n)と仰せである。  これと同様に、人が自らの生命を最高度に高め、人生を黄金に輝かせるには、正しい信仰 を求め、勇んで「精神の最高峰」に近づいていくことだ。それが、仏法であり、創価の世界 であると、私は確信している。  文豪トルストイは、鋭く述べている。  「現在世人が悩まされている悪の根本原因は、現代の人々の多くが、何らかの信仰も保持 しない一事である」(原久一郎訳) ◇  私たちが信奉する仏教は、その大本において、「対話の宗教」であった。  八万法蔵と呼ばれる膨大な経典も、釈尊が民衆のなかで語りに語った、闊達な対話が源泉 となったといってよい。  以前にも書いたが、釈尊の最初の説法、いわゆる「初転法輪」自体、決して高みから教え を垂れるようなものではなかった。  釈尊は、五人の旧友に対して、互いに真理を求める人間同士として、忌憚なく語り合った のである。  仏様の言葉だからといって、友人が瞬時に信じたわけではない。釈尊が何か奇跡を起こし たわけでもない。  釈尊が行ったのは、どこまでも粘り強い「対話」であった。納得のいくまで、何度も、何 度も……それは数日間にも及んだらしい。  やがて一人の友人(阿若?陳如=あにゃきょうじんにょ)が教えを理解し、残りの四人が続 いた。  五人いっぺんにではなく、まず「一人から」であった。ここが、大事なところであろう。 目の前の「一人」と、心を通わせることができるか否か。すべては、そこから始まるのであ る。 ◇  釈尊が「対話の遠征」を開始して、間もないころのことであった。  「ああ、悩ましい、煩わしい」と、うめきながら、森をさまよう青年がいた。  それを見た釈尊は、青年に声をかけた。  「若者よ、ここに悩みはないのだ。さあ、ここに来て、座りなさい」  そして、自分が座っていた敷物の半座を分けて、青年を座らせ、語り合った。  釈尊は、常に、悩んでいる人、正しい人生の道を求める人の「友」であった。本来、慈悲 の「慈」とは、インドの言葉で、「友情」を意味したことは有名である。  ある仏典は、釈尊の人となりを、「実に〈さあ来なさい〉〈よく来たね〉と語る人であり、 親しみあることばを語り、喜びをもって接し、しかめ面をしないで、顔色はればれとし、自 分のほうから先に話しかける人」(中村元訳)であった、と伝えている。  「何しに来たのか」と渋面を向けたり、冷たい、威張った態度はとらなかった。その身に 威厳を具えながら、親しみやすいオープンな雰囲気があったのである。  だから、農民も、商人も、家庭の主婦も、知識人も、貴族も、国王も皆、釈尊と会いたが った。悩みごとの相談にせよ、敵愾心を抱いての論難にせよ、誰もが会って話をしたくて仕 方がなかった。  創価学会も、皆がなんでも話し合える、民衆の「対話の広場」である。ゆえに、常に、賑 やかに多くの人が集い来るのだ。 ◇  実は、「どんな人とも平等に話ができる」こと自体が、当時のインドでは、驚天動地のこと であった。  それまでのインド社会は、バラモンを頂点とするカースト制度によって、人間が分断され ていた。身分や階級が違えば、心の通った交流など、不可能だったのである。  ところが釈尊は、身分等で全く人を差別しなかった。  たとえば、卑賤な身分の出として、侮蔑されていた人が弟子になった時にも、釈尊は最上 級の敬語をもって、彼を歓迎したのである。  諸行無常なるこの世にあっては、生老病死の苦悩から誰人も逃れられない。国王であろう と、市井の庶民であろうと同じである。  釈尊が、常に見つめていたのは、この「人間」の真実であった。  ある時、久しぶりに釈尊の会座に来たコーサラ国の王が「最近は国事のために忙しくて… …」と口にした。  すると釈尊は、「天に届くような岩山が国を襲い、もはや逃げられないと観念するしかなく なったら、あなたはどうしますか」と尋ねた。  王は言う。「そうなれば、どんな権力も役に立ちません。せめて限られた時間、善事を為す のみです」  ここで、釈尊は、この岩山とは、「老い」と「死」のことであると語るのである。  人間として、いかに生きるべきか? この真実の道を、多くの人びとと共に探求する手段 こそ、釈尊の「対話」だったのである。 ◇  妻が信仰することに反対し、釈尊に文句を言いに来た夫も、つむじ曲がりの男も、釈尊に 会うと、謙虚に人生を見つめる目を取り戻した。  ある日には、田を耕していたバラモンが、釈尊に「私が額に拝して耕し、種を蒔くように、 あんたも働いたらどうた」と皮肉を言った。  「ええ、私も耕し、種を蒔いていますよ」――釈尊は、驚く、バラモンに語る。信仰か種 であり、智慧が鋤です。この耕作は、私を憂いなき心に運ぶのてす」  農作業で苦労している者の心底に染み通る、絶妙の譬喩といってよいだろう。ある時、亡 くした娘の名前を呼び、林の中で泣き叫んでいた一人の母がいた。  「母よ、あなた自身を知りなさい」  釈尊は、彼女に、あのソクラテスと同じ言葉を投げかけ、諄々と語っていった。  ――母よ、この林には、あなたが呼んでいたのと同じ名前の娘が、多数、葬られているの だよ。あなたが呼ぶのは、どの娘なのか。  その一言は、悲しみに囚われ、孤独に陥っていた彼女の胸を打ち、同じ苦悩をかかえて いるのは、自分一人ではないのだ″と気づかせた。  「ああ、あなたは、わが胸にささっている見難い矢を抜いてくださいました」  彼女は、涙を拭い、毅然と立ち上がったのである。  釈尊の対話は、千差万別の機根の人びとに即して、「種種の因縁、種種の譬喩をもって広く 言教を演(の)ぶ」といわれる通りの説法であり、まさに芸術″であった。 ◇  このように、仏教は「対話の宗教」であり、それゆえに「人間の宗教」であった。  君よ、快活なる「対話の達人」たれ!  雄々しき「正義の言論の戦士」たれ!  それは、二十一世紀という「対話の時代」を切り開く、人間主義者の栄冠なのだ。  「力あらば一文一句なりともかた(談)らせ給うべし」(御書一三六一n)と、蓮祖は仰せ である。  さあ、赤々と対話の炎を燃やして進もう!  仏教に深い関心を寄せたトルストイは言った。  「一本の蝋燭が他の蝋燭に点火し、数千本の蝋燭が一本の蝋燭で燃えつくように、一つの 心は他の心に点火し、数千の心もただ一つの心によって火をはなつ」(原久一郎訳)