2003.2.7(金)sp 常勝の詩  大兵庫に勝鬨を! 山本 伸一 人生は 常に 過去と現在と そして 未来のことを 考えて生き抜く。 誰人も 生まれながらにして 様々な宿命を背負って 生き抜いている。 幸福そうに 生きている人もいる。 愉快そうに 生きている人もいる。 目標もなく 生きている人もいる。 苦しみ 悲しみを 抱きながら 生きている人もいる。 絶望の闇の心で 生きている人もいる。 人生は 何を目的に生きるのか。 その答えは 簡単にして難しい。 慈折広布の 栄光の鑑(かがみ)となりゆく 兵庫よ! その築き上げた 皆の生命の城は いかなる旋風にも 暴風雨にも 微塵も動ずることなき城だ。 その兵庫の城の中には 正義と青春の喜びが 沸き返り いかなる 狂い来る嵐にも 厳然として 悠々たるスクラムで あらゆる迫害を 打ち破る。 一人悠然と 兵庫の同志は 何の遠慮もなく 尊い勝利の栄光の人生を 湧き出だしている。 おお 兵庫! 身を投げて 広布に走る 魂の美しさよ! おお 兵庫! 役職に関係なく 昼も 夜も 悲しい時も 口惜しき時も じめじめした心を 振り払い 新しき永遠の 偉大な日の出を迎え光る 兵庫の友よ! 思えば 学会弾圧の嵐の吹き荒れた 四十余年前―― それは 昭和三十七年 一月二十四日のことであった。 私は尼崎にいた。 一つの裁判が 終わろうとしていた。 私と 私の師・戸田先生を 標的にして 恐ろしき魔性の権力が動いた いわゆる「大阪事件」である。 長い裁判であった。 四年半にも及ぶ裁判であった。 わが師は その晩年 来る日も来る日も 裁判をかかえた 私の体を心配し やせ細っていかれた。 ご自身の 後継ぎである私を わが子以上に それはそれは 言語では言えぬ 深い慈愛で守り 祈り続けてくださった。 師弟は 人間にとって 親子兄弟以上の 崇高な法則であると 叫んだ哲学者がいる。 私も その通りと思う。 師弟こそ 仏法の真髄であり 人間の生きゆく根幹である。 それが消え失せた時に すべてが動物化し 狂人じみた 増上慢と慢心の 醜い魔性の葛藤が 続くのだ。 これが 人類史であった。 世界史であった。 日本の歴史であった。 判決の前夜 私は 尼崎市体育館に集い来た 懐かしき関西男子部の 直系の弟子たちに わが正義を 力の限り叫んだ。 「善良なる市民を  真面目に  人々に尽くしている民衆を  苦しめるような権力とは  生涯 断固として  闘い抜く!」 翌日の 昭和三十七年一月二十五日。 裁判所の高窓から 光が輝いていた。 深い静けさの雰囲気の中で 時計が動いていた。 裁判長の「無罪」との 洗練された声が 人々の魂に響いた。 この日を 関西のわが弟子たちは そして 兵庫のわが弟子たちは 永遠に 忘れることはないだろう。 関西も勝った。 兵庫も勝った。 神戸も勝った。 そして 私も勝った。 ともあれ 神戸の港は 文明開化とともに 進取の気概に 満ち満ちている。 昔も今も変わらない。 恩師を お迎えし また 幾たびとなく 広布拡大の起点となった 思い出も深き 伊丹の空港。 この伊丹の天地にも わが同志の 賑やかにして 決意の活躍が光る。 あの懐かしき 六甲の山並みから 瀬戸内を望むと かつての あの有名な 歴史ある外人居留地と 新しき街並みが 美事な調和を示しながら 私たちに 様々な流転を見せてくれる。 忘れもしない 昭和四十一年の九月十八日 甲子園球場に 繰り広げられた あの大雨の中の文化祭! 日本の友が 世界の友が大喝采した 創価の大文化運動である。 一糸乱れぬ 幾千幾万の友の一大絵巻は 永遠の人間讃歌の 誉れ高き歴史となった。 その あまりにも偉大な 人間美の極致を映し出した 奇跡のドラマをば見た 中国の周恩来総理の側近の人々は 心から賞讃し その本質を鋭く見抜いた。 「壮大なる創価学会は  真実の大衆を基盤にした  団体である。  これは本物である。  強い! 正しい!」と。 この日 兵庫から世界へ 不可能を可能にする 「関西魂」が 発信されたのだ。 ここ兵庫こそ 世界が憧れる 「カンサイ・スピリット」の 電源地と 永遠に刻まれ 残されたのだ。 時はめぐり それは 昭和五十三年のことだった。 人間の仮面を着けた 畜生以下の 嫉妬に狂った 反逆者どもが暴れた。 それはそれは あまりにも卑劣極まる 言語に絶する 攻撃また迫害であった。 その時 私は 北風に晒された 勇敢なる忍耐の 深き絆の同志である 加古川の友に 激励の一言を贈った。 「法華経に勝る兵法なし! 必ず  すべてに打ち勝て!」と。 そしてまた 勇気が光る 恐れなき姫路の 縁の友には 「姫路城のように  風雪に耐えて厳たれ!」と。 皆! わが弟子たちは 立ち上がってくれた。 耐え抜いて 戦い 勝ってくれた。 私は この時の 同志の健気な振る舞いを 永遠に忘れない。 ともあれ 日蓮仏法の極理は 「難即悟達」である。 そしてまた 御聖訓にも 「難来るを以て  安楽と意得可きなり」と 仰せである。 諸難に遭うことこそが 日蓮門下の 最高の名誉なのだ。 今も その方程式は変わらない。 恐れるな! 堕地獄となることを思えば やっかみの中傷批判など 歯牙にも掛けるな! さらに 私の青年時代からの 座右の箴言は 「波浪は  障害にあうごとに  その頑固の度を増す」 これである。 日本中を 呆然とさせたあの朝 平成七年の一月十七日。 私は妻と共に アメリカ指導に旅立つ 用意をしていた。 多くの先発の交流団は すでにハワイに着いていた。 環太平洋地域を代表する ハワイの国際的な学術機関 東西センターでの 講演の日程も迫っていた。 しかし その地震の第一報を聞いて 私は 即座に出発を延期した。 最初の報告は 小さいように見えたが 第一報の中に 大きな災難の 予感がしたからだ。 愛する兵庫を襲った 未聞の阪神・淡路大震災。 世界中の同志が ひたすら友の無事を祈った。 わが身も顧みず ただ友のため ただ愛する地域のため 一心不乱に 街を駆け抜け 皆の安否を確認して回った わが誉れの同志よ! 三宮の文化会館をはじめ わが広布の宝の城は 最前線の救援基地となり 焦土の闇に 希望の光を放った。 雄々しき青年たちの 九百台のバイク隊は 真心の救援物資を携え 苦しむ人々のもとへ 道なき道を 突き進んでいった。 地涌の同志の奮闘に 世界が目を見張り 感謝し合掌したのである。 私は 海外での講演を終え 真っ先に関西に入った。 かけがえのない 犠牲者の方々を 心から追善した。 そこで見た 気丈な関西の友の 尊き顔(かんばせ)! 私も そして すべての同志たちも 不死身の兵庫の勝利を 信じていた! 最も被害の大きかった あの長田区の友も そしてあの 兵庫区の同志も さらにまた 須磨区の友も 北区の同志も 厳然と逞しく 立ち上がっておられた。 私は心で泣いた。 菩薩に等しい行動 いな 仏に等しい行動 あなたたちの勇気こそ 世界のあらゆる人々の 希望と勝利を 決していったのだ! 二十世紀 最後の年の 二月二十九日 私は 夢に見た長田文化会館を 初めて訪問した。 その日は 私の七十五回目の 兵庫訪問の折である。 空前の大災害の渦中 多くの市民の 避難場所となった会館は 傷みも激しく 雑然としていたが 私には 神々しき宝城に見えた。 傷んだ階段を 一歩また一歩 踏みしめて上がった。 そこには 励まし合って生き抜いた わが誇り高き 賑やかな 創価家族があった。 「大悪をこ(起)れば  大善きたる」 「わざはひ(禍)も転じて  幸となるべし」とは 御聖訓である。 最も苦しんだ所こそが 最も幸福になる。 これが 妙法の法理だ! 空もよし 海もよし 山もよし 風もよし そして 人もよし―― 大震災から五年目には 神戸に 関西国際文化センターが 聳え立って完成した。 復興の 無量の広がりのうちに 団結の東神戸総県! 希望の西神戸総県! 黄金の明石総県! 人材の尼崎総県! 勝利の西宮総県! 勇気の播磨総県! 正義の姫路総県! 「七つの星」は 燦々と輝き出した。 兵庫が勝てば 関西が勝つ! 関西が勝てば 世界が勝つ! 私は 関西を永遠に愛する。 私は 兵庫を永久に愛する。 私とともに 血の滲むような 真剣勝負の活動を展開した あの人 この人 私は これからも一生 大法の加護と 福徳の人生を 祈り続けていくだろう。 ゆえに あなたよ! 兵庫のあなたたちよ! 神戸のあなたたちよ! 日本中 そして 世界中の模範となりて わが友のために 断じて負けるな! 断じて勝ちゆけ! と 祈りたい。  二〇〇三年二月三日   学会本部・師弟会館にて       世界桂冠詩人