2006.2.27SP  最高協議会での名誉会長のスピーチ ◆◆◆ 一生涯、師弟の道に徹しきれ ◆◆◆ 戦い抜く! その心を継承     ── 「惰性」「我見」「臆病」= 毒気を吹き払え     ── 先輩は後輩に模範を示せ 良き伝統を未来永遠に 【名誉会長のスピーチ】  一、原点に返れ!  ここに、すべての発展の道がある。  学会が80周年へ新しい道を開きゆく今、大事なのは、創立以来の原点であ る「師弟」の道に徹することである。  一生涯、師弟の道に徹しきる。  その輝く模範を、先輩は後輩のために残していっていただきたい。  きょうは、大切な恩師の指導に学び、また未来への指針となる御聖訓を拝し たい。  戸田先生は言われた。  「こっちには信心があるからといって、手をこまねいていると、そこに油断 がおきるのだ。戦いには必ず相手があるのだから、慎重に万全の対策を立てな ければならない。  四条金吾が敵に狙われて危険な時、大聖人は至れり尽くせりのご注意を、こ まごまと、おしたためになっているではないか。  まさに『用心あるべし』の御金言を噛みしめるべきだ」  戸田先生は戦時中、投獄され、軍部権力と戦い抜かれた。  ひとたび難にあうと、てのひらを返したように裏切る者がいた。師を罵倒(ば とう)し、去っていく者もいた。  それを語る先生の声は憤怒に燃えていた。  学会のおかげで偉くなりながら、傲慢になり、同志を苦しめる人間には、「恩 を知らない、不知恩の輩だ」「学会よりも、自分のこと、個人のことを大事に する連中だ」と激怒された。 ◆◆≪戸田先生≫ 腰抜けの幹部はいらない 悪への怒りなき者は去れ ◆清き和合を守れ  一、先生は、学会の麗(うるわ)しい和合を破ろうとする者がいたならば、 青年部が、ただちに戦えと厳命された。  「いくら立派そうに見えても、悪に対して、弱い人間、悪と戦わない人間は、 結局、ずる賢い人間だ」  これが恩師の未来への警鐘であった。  最高幹部の皆さまであるゆえに、あえて厳しく言い残しておきたい。  悪と戦わなければ、悪を容認し、悪に加担するのと同じである。  それは、すでに師弟を忘れ、信心を食い破られた姿だ。  その根底は、「臆病」であり、「保身」であり、「背信」である。  その「心の毒気(どっけ)」は、いつしか蔓延(まんえん)し、尊き信心の 和合を壊していく。  「もう、これくらいでいいだろう」 ── そんな中途半端な心が毛筋(けす じ)ほどでもあれば、悪の根を断ち切ることなどできない。  毒気は断じて一掃し、吹き払わねばならない。  「戦う心」が清浄な伝統をつくる。  最後の最後まで、邪悪をすべて根絶するまで、正義を叫び抜く。  この戦う学会精神を、身をもって未来に継承していただきたい。  「学会に腰抜けの人間はいらない。悪への怒りなき者は去れ!  私は、最後の一人になっても戦う!」  これこそ、惰弱な幹部に対する戸田先生の痛烈なる叫びであった。 ◆「不二(ふに)の心」で祈り、戦え!  一、日蓮大聖人の仏法は、「一人の人間革命」を成し遂げ、ついには全人類 の宿命の転換をも可能にする「希望の大法」である。  しかし、せっかく、この大仏法にめぐりあいながら、何か起こると、心ゆら ぐ弟子もいた。  いくら大聖人が弟子たちのために真剣に祈られても、弟子のほうが「不二の 心」でなければ、祈りはかなわない。  御書には、こう仰せである。  「あなたがたはそれぞれに、日蓮の大切な味方である。ところが、私が頭を 砕くほど真剣に祈っているのに、今まで明らかな現証がないのは、この中に心 の翻(ひるがえ)る人がいると思われるのである。思いの合わない人のことを 祈るのは、水の上に火をたき、空中に家を建てるようなものである」(御書1 225ページ、通解)  御書には、信心退転の者の末路が、いかに悲惨であるか、繰り返し述べられ ている。  それは、断じてそうなってはならないとの厳愛の御指導と拝せよう。  身は退転していなくても、心が退転している者。  自分が退転するだけでなく、同志を悪道に転落させる者。  あろうことか、師匠を誹謗し、広宣流布を破壊する者。  そうした人間の姿が、御書に厳然と留められている。  少々、長くなるが、心して拝したい。  「法華経を経文のように持つ人々であっても、法華経の行者を、あるいは自 分の貪(むさぼ)り・瞋(いか)り・癡(おろか)の三毒の煩悩のために、あ るいは世間的なことに寄せて、あるいはさまざまな行動を見て、憎む人がいる。 この人は、法華経を信じていても、信ずる功徳はない。それどころか、かえっ て罰を受けるのである」(同1247ページ、通解)  「この法門についた人は数多くいるけれども、公私ともに大難がたびたび重 なってきたので、一年、二年はついてきたものの、後々には、皆、あるいは退 転し、あるいは反逆の矢を射た。また、あるいは身は堕ちなくても心は堕ち、 あるいは心は堕ちなくても身は堕ちてしまった」(同1180ページ、通解)  「はじめは信じていたのに、世間の迫害が恐ろしくて、信心を捨てた人は数 知れない。そのなかには、もとから誹謗していた人々よりも、かえって強く誹 謗する人々もまた多くいる。仏(釈尊)の在世にも、善星比丘(ぜんしょうび く)などは、はじめは信じていたけれども、後に信心を捨てたばかりでなく、 かえって仏を誹謗したゆえに、仏の大慈悲をもってしても、いかんともしがた く、無間地獄に堕ちてしまった」(同1088ページ、通解)  「日蓮を信ずるようであった者ども が、日蓮がこのような大難(=佐渡流罪)にあうと、疑いを起こして法華経を 捨てるだけでなく、かえって日蓮を教訓して、自分のほうが賢いと思っている。 このような歪んだ心の者たちが、念仏者よりも長く阿鼻地獄に堕ちたままにな ることは、不憫(ふびん)としか言いようがない」(同960ページ、通解)  「(歪んだ心の者たちが)『日蓮さんは私たちの師匠ではあられるが、あま りにも強引だ。私たちは(師匠と違って)柔らかに法華経を弘めましょう』と 言うのは、ホタルの光が太陽と月を笑い、蟻塚が華山(かざん=約2000メ ートルの中国の名山)を見くだし、井戸や小川が大河や大海を軽蔑し、小鳥の カササギが偉大な鸞鳥(らんちょう)と鳳凰(ほうおう)を笑うようなもので ある、笑うようなものである」(同961ページ、通解)  一、いまだ勝れた法を得ていないのに、それを得たと思い上がる。  この「増上慢」を仏法は厳しく戒めている。  「開目抄」には「智慧がない者は、増上慢を起こして、自分は仏と対等だと 言う」(同226ページ、通解)との摩訶止観(まかしかん)の言が示されて いる。  惰性になるな!  我見になるな!  増上慢になるな!  この大聖人の叫びを、断じて忘れてはならない。 ◆◆ 御書の利剣もち民衆よ強くなれ ◆日々、御書を拝せ  一、日々、御書を拝することだ。  民衆よ強くなれ!  民衆よ賢明になれ!  そうした悲願が、御書には脈打っている。  人権の確立も、社会の改革も、その根本の指標は御書の中にある。  21世紀は、苦しんできた民衆が、晴れ晴れと歴史の主役に躍り出る時であ る。  御書の利剣を高々と掲げ、新しい時代を切り開いていきたい。  私の心には、恩師の力強い声が響いている。  「私が打てる手は、全部、打っておいたぞ。あとはお前が、思う存分、戦い まくれ!  勝って勝って、勝ちまくれ!」  未来の勝利をつくるのは今である。  いよいよ次の人材を育てながら、異体同心で、永遠の発展の道を築いてまい りたい(大拍手)。        (2006・2・19)