2006.4.16SP =-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=- わが忘れ得ぬ同志 第1回      シルビア・E・サイトウさん                 ── 南米広布の母 =-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=- ◆◆◆ 母は幸福の旗なり! ◆◆ 師弟ひとすじに生き抜く  全世界   母に勝れる     ものはなし  わが婦人部が結成されて、五十五周年 ── 。  嬉しいことに、今や世界中で、五月三日の「創価学会母の日」が慶祝(けい しゅく)されている。  創価の母たちが「人類の宝」と感謝され、「世紀の希望」と仰がれゆく時代 が始まったのだ。  ブラジルの誇る女性詩人コラ・コラリーナは謳(うた)った。  「楽観主義をもって   種を蒔(ま)け!   理想をもって   種を蒔け!   平和と正義の   生命力あふれる種を!」  私の胸には、ただひとすじに妙法流布の種を蒔き続けてきた、誇り高き母た ちの顔が深く刻まれて、決して離れることはない。  その尊き一人が、「南米広布の母」と讃えられたシルビア・E・サイトウさ ん(日本名・斎藤悦子)である。  喘息で「二十まで生きられない」と言われた彼女が、十九歳で入信し、更賜 寿命(きょうしじゅみょう)して、ブラジルの大地に幸福と栄光の種を蒔いて いった。  世界広布の王者、ブラジルSGI。その堅固な礎(いしずえ)となったのも、 広宣流布に命を捧げた母たちであった。 ◆「彼女ならば……」  それは、一九六四年(昭和三十九年)の師走であったと記憶する。  清楚なヤング・ミセスが、大田区小林町(当時)の小さな小さな我が家を訪 ねてきた。  シルビアさんである。妻と歓待した。  その数日前、私は、優秀な商社マンで、ブラジルに単身赴任していた夫のロ ベ.ルト・Y・サイトウさん(日本名・斎藤晏弘〔やすひろ〕)とお会いした。  彼は、学会の南米本部長として戦うため、会社を辞し、本格的にブラジルに 移住したいとの決意を固めていた。  夫人のシルビアさんも、大変な覚悟であったろう。  しかし、私には「彼女ならば」との思いがあった。なぜなら、誉れ高き関西 女子部の出身者であったからである。  京都の女子部時代、彼女は、私と共に、「大阪の戦い」(昭和三十一年)を 喜び勇んで戦った。  翌年の大阪事件では、囚(とら)われの私の身を案じ、東警察署にも、大阪 地検や大阪拘置所にも駆けつけてくれたのだ。  その後、関西でも東京でも、目覚ましい広布拡大の実証を示し、個人折伏も、 入信十年で五十世帯を超えていた。  私は、彼女に尋ねた。  「本当に行けるかい」  「はい、行ってきます! ブラジル広布をやり遂げて、先生にお応(こた)え します」  誓願(せいがん)に燃えた美しい顔と、そして凛然(りんぜん)とした声が、 嬉しかった。  「私も全力で応援するよ。一年後には、必ず行くからね」  彼女は二十八歳だった。そして、生涯、この時の誓いを忘れなかった。  南米本部の婦人部長の任(にん)を受けた彼女は、翌一九六五年の一月、颯 爽(さっそう)と新天地へ旅立ったのである。 ◆必ず宿命転換を  彼女の行動は、長旅を経てサンパウロに到着した、その翌日から直ちに始ま った。  メンバーのトラックに乗せてもらい、五十キロ、百キロと離れた同志の家を、 一軒また一軒と、訪ねて回っていったのである。  大雨で車が立ち往生し、やむなく四歳の長女を背負い、二歳の長男を抱いて、 膝まで水につかりながら歩いたこともあった。しかも、おなかには三人目の子 がいた。  当時、ブラジルには、二千五百世帯の同志が、希望に燃えて生き抜き、戦っ ていた。その多くは日系人である。皆、いまだ生活は苦しかった。  そこへ、天から降ってきたような女性が、凛(りん)として、大確信の声を 響かせたのである。  「ひどい喘息で死を待つだけだった私が、信心をして、池田先生にお会いし、 生きる希望を得たのです。  必ず必ず宿命転換できる仏法です。  先生が言われる通りに、前進しましょう!」  まさに、"幼子(おさなご)を抱いたジャンヌ・ダルク"であった。  一年後には、三倍増の八千世帯を突破した。  いや、優に一万世帯を超える勢いだったと、当時を振り返る人もいる。           ◇  辛くとも   嘆くな 笑顔の       母の勝ち  一九六六年三月、約束通り、私はブラジルの土を踏んだ。  私にとっては、第三代会長に就任した年の初訪問以来、六年ぶりのブラジル である。  だが、軍事政権下、行く先々で政治警察に監視された。銃を持った大勢の警 官に、会合の会場を囲まれたこともあった。  その背景には、学会の急速な発展に反感をいだいた勢力からの、「共産主義 者」「暴力主義者」等々、まったく事実無根の誹謗があった。  広宣流布の大躍進は、「猶多怨嫉(ゆたおんしつ)」の難を引き起こしてい たのである。  御聖訓(ごせいくん)通り、「魔競(ま・きそ)はずは正法と知るべからず」 (御書一〇八七ページ)だ。  「先生、申し訳ありません」  「私は大丈夫だよ。広布の途上で銃に撃たれるなら本望じゃないか!」  悔しさに涙していた彼女が、毅然(きぜん)と顔を上げた。  「先生、私は決して負けません。  絶対に世界一のブラジルをつくって、再び先生と奥様をお迎えします!」           ◇  一九七四年の三月、私はアメリカ・ロサンゼルスでの行事を終え、ブラジル へ向かう予定であった。しかし、申請していたビザが発給されず、訪伯(ほう はく)を断念せざるを得なかった。  私は、サイトウ夫妻に電話をかけて言った。  「涙など、決して見せてはいけない。明るく、皆を励ますんだよ。……頼ん だよ」  私は急遽(きゅうきょ)、予定を変更して、アメリカのニューオーリンズ市 へ飛んで、教育交流を進め、多くの英邁(えいまい)な青年たちと語りあった。  その訪問の三十周年を記念して、このニューオーリンズ市に誕生した「友情 の森」に、私と妻の名をつけていただいたことも、光栄な限りである。  昨年のハリケーンの被災も厳然と乗り越えて、わが同志は、社会の依怙依託 (えこえたく)となって晴れ晴れと貢献されている。  世界広宣流布の前進には、決して行き詰まりがない。  真剣に踏み出した「一歩」の意義は、時とともに、いやまして深まっていく ものだ。 ◆◆ ムイト・マイス・ダイモク〔もっと題目を!〕 ◆覚悟の信心で!  シルビアさんは、この最も苦難の時に、ブラジル人として生き抜く覚悟を決 めた。  夫と共にブラジル国籍をとった。  そして、ブラジルの国土に打ち込むが如く、唱題につぐ唱題を重ねていった。  「法華経に勝(まさ)る兵法なし」 ── 徹して題目をあげて、あげて、あ げ抜いた。  必ず、学会を正しく社会に認識させてみせる!  そのためにも、師弟不二の信心に徹し抜くのだ!  この信念で、彼女は、日本の二十三倍という広大な天地を駆け巡った。はる か三千キロの彼方のアマゾンへも行つた。  その足跡は、国境を越え、ペルー、ボリビア、パラグアイ、ウルグアイ、ア ルゼンチンなどにも及んでいる。  わが子が次々に生死(せいし)をさまよう病魔に襲われ、深刻な経済苦にも 悩む婦人部員がいた。  「私ほど不幸な女はいない」と嘆く彼女に、シルビアさんの激励は鮮烈であ った。  「今こそ、変毒為薬(へんどくいやく)できる時です。先生に続いて、大願 を起こしましょう!  ブラジルの全同志が自分以上に幸福になることを祈り、戦い、広宣流布に励 むのです。人生に勝つには信心です!」  この励ましに立ち上がり、苦難を打開していった女性が、現在のブラジル婦 人部長、ジェニ・イケダさんである。 ◆18年ぶりの訪問  二度目の訪問から十八年の長き歳月が流れ、私は、遂に、三たび、悲願のブ ラジルの土を踏んだ。  一九八四年の二月十九日であった。  言い知れぬ労苦の果てに、出迎えてくれたシルビアさんたちの笑顔と涙の輝 きを、どうして忘れることができようか。妻の目にも光るものがあった。   ── 「ピケ、ピケ、ピケ」の大勝利の熱い雄叫(おたけ)びが、こだまし た大文化祭。  私は、リハーサル会場にも足を運んだ。青年たちの嵐の如き歓呼が響いた。  この日に向けて、ブラジルの未来部、そして青年部の友は、「つた(拙)な き 者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」(同二三四ペー ジ)との御聖訓を学んでいた。  これは、あの「大阪の戦い」の真っ只中、旧関西本部で、シルビアさんと初 めて会った直後、私が贈った一節である。  「この御文だけは、生涯、忘れてはいけないよ」 ── その心が、後継の若 人の心に、確かに伝えられていた。  ある慧眼(けいがん)の宗教社会学者は、ブラジルSGIが発展の基盤を築 くことができた理由の一つに、"師弟という感覚がもともとないブラジル"に、 「師弟」の観念を形成した点をあげておられる。  これは、"池田会長から信仰の原点を学んだシルビア・サイトウ総合婦人部 長の指導によるところが大きい"と、その学者は結論されている。〈渡辺雅子 著『ブラジル日系新宗教の展開』東信堂〉 ◆正義の怒りに燃え  あの忘恩背信の日顕一派が邪悪の牙をむいた時も、彼女は「彼らは民衆の真 心の浄財を貪(むさぼ)り、生き血をすする天魔です」と、真っ先に叫んだ。  ブラジルの同志の真心の限りを尽くして建立(こんりゅう)された一乗寺(い ちじょうじ)を、日顕一派が不法に乗っ取ろうとするや、当時のエレーナ・タ グチ婦人部長と共に、破邪顕正の祈りをさらに猛然と起こしていった。  それに、全同志も呼応し、題目の渦は、全土に広がった。  ブラジルSGIは十一回にわたる裁判を全て勝って、邪宗門の画策(かくさ く)を完膚(かんぷ)無きまで打ち砕いた。  ブラジルの尊き同志たちには、極悪に対する正義の怒りが燃え上がっていた。  新しき平和と文化の潮流である、その闘魂こそが、世界に冠たるブラジルS GIを築き上げていったのである。  ブラジル文学アカデミーのマシャード・デ・アシス初代総裁は語った。  「生きる芸術とは、いかに大悪があろうと、それに勝る大善を生み出すこと だ」           ◇  シルビアさんが突然、病床に伏したとの急報が届いたのは、一九九三年の四 月である。  この年、私の四度目のブラジル訪問を、同志と共に、そしてまた三人の後継 のお子さん方と、家族そろって、陰で支えてくれたのが、彼女であった。  私と妻は、ひたぶるに祈り、お見舞いの伝言を送った。  夫のロベルトさんが枕許(まくらもと)で、その伝言を伝えると、昏睡状態 だった彼女の目から、美しい涙がこぼれ落ちていったと伺(うかが)った。  意義深き四月二十八日の夕刻、偉大なるブラジル広布の大先駆者シルビアさ んは、静かに、そして厳(おごそ)かに霊山へ逝(ゆ)かれた。  享年(きょうねん)五十七歳。寿命を三十数年延ばしての新生の旅立ちであ ったのだ。  葬儀には五千人もの人びとが集った。社会の名士も多く参列された。葬儀が 終わっても、アマゾンや隣国から、彼女にお世話になった同志たちが続々と駆 けつけたという。  私は、栄光の生涯を讃えた。  偉大なる   南米広布の     母なれば   その名 光りて     三世に薫らむ  その芳名(ほうめい)は、広島の中国平和記念墓地公園にある「世界顕彰之 碑」にも、一閻浮提広宣流布の功労者の代表として、燦然(さんぜん)と刻ま れている。  私と妻が、シルビアさんを偲(しの)んで、東京牧口記念会館の庭園に植樹 した桜も、立派に育って、この春も爛漫(らんまん)の花を咲かせた。           ◇  シルビアさんたちが、ここブラジルの大地に染み込ませた唱題。  それは、何千万、何億、いな何十億万遍という数の題目となった。  「ムイト・マイス・ダイモク!(もっと題目を!)」  この大仏法者シルビアさんの尊く美しき信念は、今もって、優に十万人の連 帯を誇る、偉大なるブラジル婦人部に脈々と受け継がれている。  日蓮大聖人は、「これまで多くの月日の間、日夜読誦(どくじゅ)している ところの妙法の功徳は、大空にも余っているであろう」(御書一一九四ページ、 通解)と仰せである。  母の結合は、真実の正義の力である。  世界の母の連帯こそが、永遠の勝利者の土台であるがゆえに、恒久の世界平 和の原則となってゆくのだ。  「祈りとして叶わざるなし」 ── 平和の大先覚者の創価の母たちの祈りは、 必ずや人類の宿命を転換し、母なる地球の命運をも絶対に変えていくにちがい ない。  母は大地! 母は太陽!  そして、母は幸福の旗なり。