2006.5.21SP =-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-  わが忘れ得ぬ同志 第3回       リチャード・コーストンさん                 ── イギリスSGIの初代理事長 =-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=- ◆◆◆ 広布の使命に生き抜いた英国紳士(ジェントルマン)     ── 「学会の前進が人類の幸福と平和の前進」  「創価学会の信奉する仏法は、世界を救う仏法である。  創価学会の前進は、人類の幸福と平和の前進である」  イギリスSGI(創価学会インタナショナル)のリチャード・コーストン初 代理事長が、その全人生を賭(と)して放っていった叫びである。              ******  それは、金の思い出と輝く、一九九四年の六月十五日 ── 創立五百五十年 の歴史を誇るスコットランドの名門グラスゴー大学から、私は光栄にも、名誉 博士号を拝受した。  ヨーロッパ屈指の学問の王座であり、教育の殿堂である。まことに厳かな儀 式であった。  何ものにも動ぜぬ、荘厳なる伝統が光っていた。  何ものにも侵されぬ、厳正なる品格が薫っていた。  グラスゴーの緯度はモスクワと、ほぼ同じである。  初夏とはいえ、式典会場から外へ出ると、風が肌寒かった。  その時、後ろから、とっさに自分のコートをぬいで、私の体を覆(おお)っ てくれた紳士がいた。コートの温もりから、心の温もりが伝わってきた。  振り向けば、あのコーストンさんの微笑みがあった。  「私の母は、ここグラスゴーの出身でした。きょうの池田先生の受章が、私 は、嬉しくて嬉しくてなりません」 ◆何と愚かな事を  コーストンさんには、良き英国紳士の気品があり、風格があった。  祖先は、印刷技術をイギリスに伝え、多大な貢献を果たした名家である。今 でも、ロンドンの国会議事堂の近くには、祖先の名「カクストン」を冠した立 派な集会ホールが存在する。  母方も、グラスゴーの裕福な家系であった。  その名高い家門に、コーストンさんは、一九二〇年(大正九年)、生を受け た。  長男として大切に薫育された彼は、名誉ある王立陸軍士官学校に学び、国を 守りゆくエリート軍人になった。  しかし、第二次世界大戦下、英印(えいいん)連合軍の少佐として、インド とビルマ(現・ミャンマー)の国境付近で戦い、日本軍がインド東北部への侵 攻を企てた「インパール作戦」を迎え撃ち、戦争の残虐と悲惨を嫌というほど 体験した。  「我々は、何と愚かなことをしているのか」 ── 敗走する日本軍を追撃し ながら、累々(るいるい)と横たわる屍(しかばね)を目の当たりにし、コー ストン少佐は慟哭(どうこく)した。  私の敬愛する長兄・喜一(きいち)も、ビルマで戦死した一人である。           ◇  戦後、コーストンさんは平和への夢を描きながら、長い軍人生活に別れを告 げ、実業界に身を転じた。  ロンドンのハロッズ・デパートで副総支配人を務め、その後、ダンヒル社の 極東支配人として、何度か日本へ来るようになった。  その折、学会員の光子(みつこ)さんと出会い、やがて結婚に至る。  光子さんの母君の薦(すす)めもあり、手にした英語版の小説『人間革命』 に衝撃を受けた。ここにこそ、求めてやまなかった平和の大哲学がある、と。  東洋流にいえば、「天命」を知り抜く五十歳の年輪を重ねて、一九七一年(昭 和四十六年)、凛然(りんぜん)と入会されたのである。  喜々として活動を開始し、ほどなく在日外国人メンバーの中心者となり、自 宅では求道の息吹あふれる国際座談会やセミナーが活発に開かれた。 ◆次はロンドンで ──  入会された当時、夫妻は新宿区信濃町の聖教新聞本社の近くに住んでおられ た。私の家とも、目と鼻の先である。  光子夫人は、一時、聖教新聞の配達員もしてくださっていた。  不思議なご縁だが、コーストンさんと初めてお会いしたのは、フランスの地 であった。  一九七二年の五月三日、仕事でフランスに滞在中の夫妻を、パリ本部にお迎 えしたのである。  みずみずしい若葉の庭で、私は夫妻に語りかけた。  「東京で隣同士の私たちがパリで出会うとは、素晴らしいことですね!」  この二日後、私は大歴史家トインビー博士と、ロンドンのご自宅でお会いし、 二年越し四十時間に及ぶ対話を開始したのである。  世界の諸文明を鋭く洞察されてきた博士は言われた。「文明は、その基盤を なす宗教の質によって決まる」と。  そして近代西洋文明の行き詰まりを打開する力として、「今こそ新しい宗教 が必要です」と、仏法の人間主義に大きな期待を寄せてくださった。  ここヨーロッパにも、本格的に大法弘通(だいほうぐつう)の時が来たと感 じた。ふと脳裏に浮かんだのは、誇り高き英国紳士コーストンさん夫妻の顔で あった。  その年の夏には、日本でコーストンさんと一緒に勤行をする機会もあった。  私は、彼の手を握って言った。  「次はどこでお会いしたらいいか、ずっと考えてきました。今度は、ロンド ンで、いかがでしょうか」  彼は、「グッド・アイデア!」と顔をほころばせた。           ◇  折から、コーストンさんは考え始めていた。  母国の「平和」と「広宣流布」に後半の人生を捧げゆくことが、自分の今世 の使命ではないか、と。  しかし、日本での暮らしは、家庭も仕事も、すべて順調だった。帰国すれば、 その安定を一切、捨てねばならない。「日本永住」は、光子さんとの結婚の条 件でもあった。  しかし、ご夫妻は真剣に唱題を重ね、イギリスの妙法広布を深く決心したの である。  私は、書籍に、「久遠元初からの永遠の友」と記して、お二人に贈った。  「イギリス一、幸福なご夫妻になってください」と。  渡英の直前には、信濃町のコーストン夫妻のお宅で開かれた最後の座談会に、 私の妻も参加した。  イギリスで一番苦労するのは光子さんだからと、妻は、自分の体験を通しな がら、「ヨーロッパの広宣流布をよろしくお願いします」と、膝を交えて語り 合ったようである。  ご夫妻が旅立ったのは、一九七四年(昭和四十九年)の春三月であった。           ◇  折しも東西冷戦下、米ソ対立の狭間(はざま)で、ヨーロッパもまた、分断 の苦悩が続いていた。ベトナムや中東の戦火も絶えなかった。  戦争から平和へ!  私は、その転換の原動力こそ「対話」だと、決然と世界へ打って出た。  この七四年には、アジア、アメリカへ、さらに中国へ二度、ソ連へも。  共産圏への訪問を揶揄(やゆ)して「宗教者が、なぜ赤いネクタイをするの か」等の中傷を浴びたが、私は歯牙にもかけなかった。  翌七五年一月には、再び渡米。戦争の悲劇の島グアムで、SGIを結成した。  「世界広宣流布」即「世界平和」をめざして!  歴史的な発足式には、コーストンさんも飛んで来られた。「必ずイギリスに も行きます!」と伝えると、彼の笑顔が弾けた。  「日蓮が慈悲曠大(こうだい)ならば南無妙法蓮華経は万年の外(ほか)・ 未来までもながる(流布)べし」(御書三二九ページ)  この永遠の妙法を根底に、イギリスにも、いな全ヨーロッパにも、必ずや「永 遠の平和の都」を築くのだ!  これが、彼と私の決意であった。 ◆師弟不二の誓い  コーストンさん夫妻の再出発は、苦難続きだった。  期待していた仕事の当てが外れ、給料は激減した。  光子夫人が慣れない異国の地で、ベビーシッターをして生活費を助けた。  七五年の五月、約束したロンドンでの再会が実現した。  私のイギリス初訪問から十四年。この時、イギリスで法人が認可され、コー ストンさんが初代理事長に就(つ)いた。  「私たちは、どこまでも、師弟不二の精神で前進します!」  彼の就任第一声は、毅然(きぜん)としていた。  新しいスーツも靴も買えず、生活はどん底だったが、広布に戦う心は朗らか に不撓不屈(ふとうふくつ)であった。  「長き夜も必ず明ける」(シェークスピア)。輝く朝を見つめ、彼は戦った。  車や電車を乗り継ぎ、地方都市に住む同志の激励にも回った。  大雨の日、破れた靴から靴下が濡れ、やっと訪ねた家で仏間にあがれなかっ たこともある。  コーストンさんは、ロンドン西部の自宅アパートの一部屋を、拠点兼事務所 に提供してくださった。イギリス広布の草創期を共に歩む尊き同志たちと、大 家族のような楽しい日々だったと振り返っておられた。  「立正安国論」「諸法実相抄」等の御書を講義し、青年部と共に、"トイン ビー対談"の勉強会も真剣に行った。  現在のサミュエルズ理事長、フジイ副理事長、プリチャード婦人部長らも、 "コーストン学校"の栄えある卒業生である。  リッチモンドに新会館が誕生すると、ご夫妻に管理者になっていただいた。 メンバーも皆、わが事のように大喜びした。           ◇  戦場という生死の境で指揮を執ってきた彼は、指導者のわずかな気の緩みで、 幾多の人々を犠牲にしてしまうことを、身に沁(し)みて知悉(ちしつ)して いた。  ゆえに誰よりも自分に厳しいリーダーであった。  また、連携を密にして、報告を迅速・正確にしていくことが、組織の生命線 であることを、常に訴えていた。  さらに、あらゆる戦いにおいて、皆の食料や休憩(きゅうけい)・睡眠を確 保することが、指揮者の責務である。  彼は、いかなる時も、メンバーがお腹をすかしていないか、疲れていないか、 交通手段は心配ないか等々、細やかに心を砕いていった。 ◆正義は学会に!  一九七九年 ── 嫉妬に狂った坊主と恩知らずの反逆者の大陰謀により、私 が第三代会長を辞任した年の秋のことである。  彼は、同志と共に、私が指揮を執る神奈川文化会館まで、勇んで来てくれた。  私が「学会は正義です。何の心配もいりません。『十年後を見よ! 二十年後 を見よ!』との心意気で進みましょう」と語ると、彼の力強い声が響いた。  「狂った日本で何があろうとも、池田先生は、永遠に私たち創価学会インタ ナショナルの会長です。  SGI会長として、イギリスにいらしてください!  我らのヨーロッパで、世界広宣流布の思う存分の指揮をお願いします!」  その生命の叫びを、どうして忘れることができようか。           ◇  八一年の五月、正義の師子は、いよいよ鎖を断ち切り、二カ月間で地球を一 周する平和旅に疾駆した。  六月上旬には、雄壮なサント・ビクトワール山(勝利山)を仰ぐ、南仏(な んふつ)トレッツの欧州研修道場にいた。  十八力国五百人の地涌の友が集い、欧州広布二十周年を記念する研修会が行 われたのだ。  研修初日の六月六日は、創立の父・牧口常三郎先生の生誕百十周年の佳節で あった。今、この日は「ヨーロッパの日」として歴史に刻まれている。  期間中、早朝から深夜、そして明け方まで、不眠不休で運営にあたってくれ たのが、コーストンさんだった。当時、六十一歳。  少し休んでほしいと心配する青年に、感謝しながらも、断固たる口調で言っ た。  「今、欧州は広布の草創期だ。自分の体をかばっている時ではない!」  彼は、愛する青年たちに繰り返し語った。  「常に会員第一たれ」  「現場主義が大切だ。官僚主義に陥ってはいけない」  「自分に負けて、為すべきことをしないことは、仲間を裏切り、陥れること だ」  「大切な同志を、自分の信念を、絶対に裏切ってはならない」           ◇  その十年後の九一年三月、日顕宗の学会破壊の謀略に怒ったコーストン理事 長は、烈々たる抗議文を日顕に叩きつけた。  「私たちがSGI会長を裏切り、SGI組織を解散するはずだと、汝は信じ ているのか!そこまで我らを見下しているのか!」  「汝が行おうとしていることは、イギリスの広宣流布を何百年も遅らせるこ とでしかない!」  この火を噴く正義の論陣が、イギリスはもちろん、全ヨーロッパのSGIを 厳然と護ったのだ。 ◆◆ 妙法は「活(かつ)の法門」       ── その国の伝統も その人の人生も輝く ◆文化の城(タプロー・コート)の誕生  イギリス広布という「人生の本舞台」に立った時、コーストンさんのそれま での一切の苦闘は、豁然(かつぜん)と生きてきた。  「ノブレス・オブリージュ(高貴な者に課せられる高い義務)」という伝統 の精神も、仏法の菩薩の生き方を根底にすれば、新たな「世界市民精神」とし て蘇生していくのを、コーストンさんは確信した。  以前は悔いていた軍人としての経験すら、青年に伝えるべき「民衆奉仕のリ ーダー学」の知恵の宝庫となった。  妙とは「開く義」。  妙とは「蘇生の義」。  そして、妙とは「円満具足の義」である。  仏法には無駄がない。  御聖訓には、「一切の事は国により時による事なり、仏法は此の道理をわき まうべきにて候」(御書一五七九ページ)と仰せである。  その国の良き伝統を最大に生かし、その時代に応じて、人間と社会の幸福の ため、豊かな精神の価値を生み出す。それが「活の法門」である。  一九八九年五月、美しき七彩(しちさい)の虹のもと、壮麗なタブロー・コ ート総合文化センターが堂々と開所した。  あの"ベルリンの壁"が崩れる、半年前であった。  二千年の歴史が薫る天地に立つ城館(じょうかん)が、世界市民の集う平和 と文化の大殿堂として蘇った。それは、コーストンさんの大勝利の雄姿そのも のであった。  晴れの開所式に馳せ参じた私は、偉大な"城主"のご夫妻に一首を捧げた。       不思議にも         夫婦(めおと)の使命は           永遠に        この地に残らむ            世界に薫らむ ◆最後の最後まで  コーストンさんが逝去されたのは、一九九五年一月十三日の朝。享年は七十 四歳であった。  肺がんと告知されても、一歩も退かなかった。逝去一週間前のイギリス総会 にも、出席する決意だったようだ。  心地よさそうな、眠るような最期であった。薄らぐ意識の中でも、口を動か し続け、題目を唱えていた。  傍(かたわ)らで手を握っていた光子夫人が、「私も元気で戦っていきます。 心配しないでください」と呼びかけると、その手を強く握り返した。  ピンク色の頬を、早朝の太陽が美しく照らし、まことに荘厳な、新しい生命 の旅立ちとなった。  五十一歳で入信した時、「あと二十年は妙法のために戦いたい」と願った彼。  その通りの歳月を広宣流布に捧げた"妙法のジェントルマン"は、ヨーロッ パの平和の夜明けを見届けたのだ。  そして、新世紀の広布を託したヨーロッパの青年たちの大前進を、あの柔和 な笑みで見守り続けているにちがいない。  タプロー・コートには、コーストン初代理事長を讃えて、その端正な顔のレ リーフが掲げられている。  私が贈らせていただいた言葉とともに ── 。  「最後の最後まで、戦って戦って戦い切って、世界広宣流布の歴史に、不滅 の功績を留めし、大功労の英雄なり」