2006.6.25SP =-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-  わが忘れ得ぬ同志 第5回      テッド・オオサキさん           ── アメリカの副理事長(元米空軍中佐) =-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ◆◆◆ 君よ舞ゆけ 自由の翼で  「私が本領を発揮するのは、これからだ」  青春時代から好きだったアメリカの民衆詩人ホイットマンの一節である。  「いよいよ勇猛精進!」  この闘魂を一生涯、いな永遠に燃え上がらせていくのが、地涌の丈夫(ますらお)の 生命だ。  アメリカ広宣流布の草創期を築いたテッド・オオサキ君も、その一人である。                ◇  一九四一年(昭和十六年)の十二月八日、日米が開戦した時、私は十三歳であった。 東京の蒲田で、家計を助けようと新聞配達をしていた。真珠湾奇襲を報ずる新聞を配 ったことも、鮮烈に覚えている。  この開戦を機に、アメリカでは、全国十カ所の収容所に、十二万人の日系人が抑留 された。  そのなかに、幼いテッド・オオサキ君の姿もあった。  “日系二世”の彼は、一九三〇年生まれ。創価学会の創立の年である。  カリフォルニア州北部のサクラメントで育った。  十歳の時に最愛の母を肺病で亡くし、その一年後に太平洋戦争が勃発(ぼっぱつ) した。  小学生の彼は、山口県からの移住者だった父と、三人の姉妹と共に、オレゴン州と の境にあるツールレイク収容所で、終戦まで拘束されていたのである。  父母の国・日本と、生まれ育った国・アメリカと、“二つの祖国”は引き裂かれ、そこ に生きる人間も、引き裂かれた。戦争という魔物の所業(しょぎょう)だ。  終戦後、一家は故郷サクラメントに戻った。かつての家も財産も失った。  さらに高校卒業直前には、父が不慮の事故で急逝(きゅうせい)してしまったのであ る。  彼は、相次ぐ苦難を必死に耐え、高校を出ると、米空軍に入隊した。軍隊なら人種 や家柄に関係なく、実力を発揮できると信じての選択であったようだ。 ◆学会の全貌は…  空軍の大尉オオサキ君が仏法に出会ったのは、一九六四年、サンフランシスコにお いてであった。  彼が日本勤務時代に結婚したケイコ夫人は、当時、難産がもとで、ひどく腎臓を患 い、余命一、二年と診断されていた。  友の紹介で、まずケイコ夫人が入会を決意した。だが、オオサキ君は納得できなか った。  “医者も見放した妻に、見込みのない希望を与えるなんて、何か邪(よこしま)な意図 があるにちがいない”  自分がその正体を暴(あば)いてやると、三十三歳の彼は、軍人らしい義憤(ぎふ ん)にかられて座談会に乗り込んだ。  ところが、中心者は誠実そのものである。彼は心を動かされた。さらに、他人の幸福 を真剣に祈るメンバーの真心に感銘し、熱血のオオサキ君は潔(いさぎよ)く入会を決 めたのである。  「此の経は則(すなわ)ち為(こ)れ閻浮提の人の病の良薬(ろうやく)なり」(法華経 薬王品)  妙法という「大良薬」を得た夫人の健康も、目に見えて回復していった。 ◆“母達”の名通訳  アメリカ広布の黎明期、米軍人と結婚するなどして渡米した日本人女性たちが、不 思議な使命を帯びたパイオニアとして、道なき道を切り開いてくれた。日系二世で、英 語も日本語も堪能なオオサキ君は、草創の“広布の母たち”の通訳として適任だっ た。  連日、婦人部に引っ張られて座談会を回り、通訳をしながら折伏を学んだ。  この実戦のなかで鍛えられた彼は、やがて胸のすくような「折伏の名手」に育ってい ったのである。  「パイオニアのお母さんたちには、いくら感謝してもしきれません」と、彼は、さわやか な笑顔で語っていた。  女性を心から敬い、護(まも)っていく ── ここに、世界広宣流布の発展の原動力 がある。  ロスのサナエ・ババさん、テキサスのテルエ・べーデンさん、シアトルのヒロエ・クロ ウさん、ワシントンのフミコ・スネリングさん、ハワイのミツエ・ライフさんなど、亡き功労 の母たちを、私と妻は毎日、追善させていただいている。  そしてまた、尊き開拓者の皆様方に栄光あれ、勝利あれと、祈る日々である。 ◆生涯の友人に  私とオオサキ君の最初の出会いは、一九六五年の夏八月。ロサンゼルスで、「ワッ ツ暴動」と呼ばれる人種対立事件が起きている渦中であった。  渡米した私は、直ちにロスの友を激励すると、メキシコへ飛び、さらにサンフランシス コへ向かった。  深夜、空港からホテルに着くと、すぐ後に真っ白なシボレーが入ってきた。車から飛 び出したのが、サンフランシスコの新任支部長のオオサキ君だった。  早速、ホテルの部屋で懇談となった。  私は力を込めて言った。  「日系二世のあなたは、日本人のことも、アメリカ人の考え方も、よく分かると思いま す。あなたには、このアメリカに、大仏法を伝えていく偉大な使命があるのです!」  頷(うなず)く彼の目が光った。  別れ際、「生涯にわたって、親しい友人となりましょう」と言って、彼の手を固く握ると、 彼も強く握り返した。求めていた新しい人材に出会えた喜びほど、大きなものはない。  御聖訓には「日蓮が一類は異体同心なれば人人すくなく候へども大事を成じて・一 定(いちじょう)法華経ひろまりなん」(御書一四六三ページ)と仰せである。  小さな組織の時に、核となる人材を固めることが、未来の大発展の因となる。  帰国後、私は即座に、オオサキ君に書き送った。    「君よ 勝ちゆけ       正義の人として     君よ 舞いゆけ          自由の翼で」 ◆◆◆ 我らの夢は 人類合衆国 ◆6千人を救出!  再会は思いがけなかった。初対面から二年後の一九六七年五月、私がフランスの パリ会館を訪問した時であった。  前年に軍の教育プログラムで、カリフォルニア大学バークレー校を卒業した彼は、北 アフリカ・リビアの空軍基地に赴任していた。そのリビアから、休暇を利用して、来てく れたのだ。  軍服姿で、雄々しく日焼けした彼が言った。「空軍少佐になりました」  その二週間後。リビアの隣国・エジプトを戦場の一つとして、イスラエルとアラブ諸国 の間で「第三次中東戦争」が勃発した。  リビアも騒然となった。在留する六千人以上のアメリカ人婦女子を国外に移送する という、重大な作戦命令が下った。  この緊急時に、彼の手腕が冴えた。大胆かつ緻密な計画と素早い決断により、六千 三百三十二人が無事に脱出に成功したのである。  彼は、しみじみ思ったという。「学会活動での訓練が、全部、生きた」と。  彼の活躍は高く評価され、帰国後は、首都ワシントンに移り、国防総省勤務となっ た。  四年の歳月が流れた七二年、空軍中佐になっていた彼は、海外赴任を条件に大佐 昇進の内示を受けた。  しかし悩んだ末に、アメリカ国内に残ることを決断した。惜しまれつつ、二十二年の 軍人生活にピリオドを打ったのである。  軍隊に身を置いてきたからこそ、人びとの安穏と、世界の平和への希求は深かった。 そのために、愛するアメリカに生命尊厳の妙法を弘通し抜いて、わが人生を総仕上げ することを、彼は心に期していたのだ。                ◇  この年、ワシントンを訪れた私は、広布の誓願に生きんとする彼に言った。  「妙法の将軍たれ!」  アメリカ本部の職員になったオオサキ君は、シカゴの街へ。東部方面の指揮をとり、 七四年には、一カ月で五千世帯の拡大を達成している。  翌七五年の一月、私は、シカゴを十五年ぶりに訪問した。草創の功労者、リーブマ ンさん夫妻らと共に、オオサキ君は満面の笑みで迎えてくれた。  彼が移って二年半、シカゴの同志は、ひときわ明るく躍動していた。  人で変わる。  人で決まる。  シカゴの新出発となったこの時、練達(れんたつ)の通訳をしてくれたのも、オオサキ 君であった。  サンフランシスコで信心を始めて以来、ワシントン、シカゴ、ロサンゼルス……、彼が 行くところ、向かうところ、拡大の波が起こった。まさしく、必死の一人は万軍(ばんぐ ん)に勝るのだ。 ◆豪快に笑い、泣く  引っ越しが多く、ご家族の苦労も並大抵ではなかったにちがいない。時に不本意な 人事もあっただろう。  しかし彼には、いずこであれ、自分が行った場所で、必ず勝利の旗を打ち立ててみ せるという根性が漲(みなぎ)っていた。それが「本有常住・常寂光土(ほんぬじょうじ ゅう・じょうじゃっこど)」の哲理であることを深く体得していたからだ。  晩年には、アリゾナ、コロラドなど九つの州をまとめる総合方面を担当。  彼が住んだアリゾナのフェニックスでは、活動メンバーが十五人たらずだった男子部 が、翌年には、実に五十倍の七百人を結集したことも有名である。  彼には見栄も要領もなかった。まず、長である自分が最前線に飛び込む“率先垂 範”のリーダーであった。  折伏も、新来者から、どんどん質問を聞く。そして、御書を通し、学会指導を通し、ア メリカ人に分かりやすい表現で、仏法の偉大さを語っていった。  何より彼は、底抜けに明るかった。竹を割ったように、スパーンと何でも言う。ユーモ アたっぷり、豪快に「ワッハッハ」と笑う。  「御書には”日本という国は罪業(ざいごう)の深い、嫉妬深い悪人が集まってできた 国”と説かれているんですよ。  だから、正義の創価学会は迫害される。その日本だって、あれだけ広がった。  私たちのアメリカで、広宣流布できないはずがありません。皆さん、自信をもってや りましょう!」  皆も、「そうだ、そうだ」と大拍手。  闊達自在(かったつじざい)。それでいて、急所は外さない。  誠実。納得性。明朗さ。  ここに、組織を伸はす鉄則がある。                ◇  「個人指導、家庭訪問によって結ばれた“一対一の生命と生命のつながりこそが、 人材育成の鍵だ」  これが、オオサキ君の信念であった。そうやって自分も育ててもらったという感謝を、 彼は忘れなかった。その報恩の思いを込めて、青年たちを慈しみ、真摯に育成を続け た。  一方、金銭や女性にだらしのない卑劣漢には、爆雷のごとき、正義の舌鋒(ぜっぽ う)が炸裂(さくれつ)したと後輩たちは語る。  「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつ たふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや」(同一三六〇ページ)  この御聖訓を拝しては、彼は、熱い涙で青年に訴えた。  「一人立ち上がるんだ。  自由の天地アメリカを、『地涌の菩薩』の若き君たちが救っていくんだ」と。  我、地涌の菩薩なり。  己心に広がる「地涌の大地」に立った時、いかなる人種であれ、いかなる民族であ れ、皆、同じ人間である。皆、同胞である。  この生命の最も本源的な「ルーツ(根っこ)」を自覚した我らこそ、「人類合衆国」建設 の偉大な先駆けとなっていくのだ!  ここに、オオサキ君と私が共に描いた、アメリカの使命と理想があった。  彼は五十代の初め、心臓発作で倒れ、九死に一生を得た。以来、一段と深く、広布 の使命に生き抜いた。まさに、仏法に説く「更賜寿命(きょうしじゅみょう)」の姿であっ た。  その六年後 ── 一九八八年の「伝統の二月闘争」。  オオサキ君が率いるフェニックスは、全米一の弘教を堂々と達成した。 ◆◆ アメリカに人材山脈 堂々と ◆われは変らじ!  その後、彼は肺がんの宣告を受けた。肝臓への転移もあることがわかった。  私がお見舞いに贈った御書を喜び、彼は返事に決意を綴ってくれた。  「この御書を根本に病魔と戦います。勇気を奮い起こして戦いきり、元気いっぱいで 池田先生をアメリカにお迎えしたい」と。  また、彼は遺言ともいうべき真情(しんじょう)を、病床でテープに吹き込んで、四人 のお子さん方に残していた。  そこで彼は、小説『人間革命』から、二つの場面を選んで朗読している。  一つは、戸田先生の事業が行き詰まり、理事長辞任を発表した直後の師弟の対話 である。誰が理事長になろうとも、わが生涯の師は戸田先生であると、山本伸一の心 は微動だにしない。  もう一つは、伸一が師に「人は変れどわれは変らじ」との誓いを込め、和歌を捧げた 情景である。  そして彼は、自分の最大の喜びは「人生の師匠に出会い、師弟の道に生涯を捧げ てきたことだ」と述べ、広宣流布の組織への感謝を語っていたと、家族の方がご報告く ださった。  私が「三世山安穏城(さんぜざんあんのんじょう)」と認(したた)めた短冊が、オオサ キ君のもとに届いた二日後の十月二十二日、彼は安らかに霊山(りょうぜん)へ旅立 った。  がんの痛みもなく、「笑みを浮かべて眠っているようでした」と、ケイコ夫人は語られ ていた。  五十七歳の生涯であった。しかし、幾百年にも匹敵する勝利の人生であったといっ てよい。    偉大なる     アメリカ広布の       君なれば      三世に諸佛も         守り讃えむ                 ◇  一九九六年の六月、私はデンバー大学から、名誉教育学博士号を拝受した。  ロッキー山脈が厳然たる信念の姿で見守るデンバーは、オオサキ君が晩年に広布 の指揮をとった天地の一つであった。  私は、オオサキ君をはじめアメリカ広布の全功労者へ、この栄誉を捧げる思いで、 式典に臨んだ。  今は亡き、ハワイのハリー・ヒラマさん、ワシントンのロニー・スミスさん、シカゴのパ スカル・オリベラさん等々も、皆、忘れ得ぬ三世永遠の同志である。  つい先日の本部幹部会には、ナガシマ理事長、ハサン議長をはじめ、アメリカ壮年 部の有志が勇んで出席してくれた。  若き英邁(えいまい)な仏法と社会の指導者たちであった。  幾多のノーベル賞学者を出してきた世界的な研究所のリーダーもいる。ニューヨー クを代表する大経営者もいれば、著名なテレビ・プロデューサーもいる。  そして、皆が青年部時代からの絶対の同志愛で結ばれた信心の盟友である。  「天晴れ! 男なり」と謳われた四条金吾のごとき、爽快な創価の偉丈夫(いじょう ぶ)たちだ。  世界広宣流布の人材山脈は、御聖訓の仰せ通りに「巍巍堂堂(ぎぎどうどう)として 尊高(そんこう)」にそびえ始めた。  オオサキ君、勝ったよ!  私の心に、懐かしい正義の快男児の笑顔が浮かんだ。 ************************************************************テッド・オオ サキ 1930年(昭和5年)12月25日、米カリフォルニア州生まれの日系2世。高校卒業後、 アメリカ空軍に入隊。勤勉で優秀な仕事ぶりが認められ、中佐まで昇進した。1972 年、41歳の時、軍隊を辞し、アメリカ本部の職員に。後半生のすべてを広宣流布に 捧げる。ワシントン本部長、東部方面長、アリゾナ総合方面長、副理事長などを歴任。 行く先々で目覚ましい弘教拡大の歴史をつくり、アメリカ広布の礎を築いた。1988年 10月22日に逝去。享年57歳。翌89年にケイコ夫人が逝去。2男2女が信心を継承 する。 ************************************************************