2008年8月27日付 聖教新聞 8.24記念各部合同協議会での名誉会長のスピーチ 3 対話で人類を結べ 立正安国の精神を世界へ ゲーテ 鍛冶屋は鉄を純粋にし、強くする 師弟が人間を鍛える 戸田大学への入学の日=栄光の「8.24」 一、私の入信の日である8月24日が、今年も巡り来た。  この日を記念して、全世界で幸福のスクラムを広げゆく、わが女子部の友に和歌を贈り たい。  模範たる   創価の心を     身に体し    若き乙女は     革命児かな  一、61年前、昭和22年(1947年)の8月24日は、日曜日であった。大変に暑 い一日であったと記憶している。  当時は、入会の儀式の勤行が非常にゆっくりで、長かった。正座に慣れていない19歳 の青年には、難行苦行の出発だった。  この時、勤行の導師をされていた僧侶が、のちの日淳上人である。日淳上人は、私と妻 の結婚式でも勤行の導師をしてくださった。  日淳上人も、そしてその前の法主であった日昇上人も、まだ若かった私を非常に大切に してくださった。  戸田先生を護り、支える私の戦いを、深く知っておられたのであろう。大幹部でもなか った私に、最大の敬意を払ってくださったのである。  最高の人間学  一、戸田先生の人を見る眼は本当に鋭かった。軍国主義と戦い、2年間の獄中闘争を生 き抜かれた先生である。  「あの人問はインチキだ。嘘をついている!」等と、厳然と見破っていかれた。  私は、その先生のもとで、厳しい訓練を受けた。先生がだれよりも期待し、信頼してく ださった弟子である。  ドイツの大文豪ゲーテは綴った。  「鍛冶屋は、火を吹きつけて、鉄の棒からよけいな成分を除くことによって鉄を軟かく する。しかし、棒が純粋になると、打って鍛える。それから、水という異質の成分を待っ てそれは再び強くなる。これと同じことが、人間にもその師によって行なわれるのである」 (関泰祐訳『ウィルヘルム・マイステルの遍歴時代』岩波文庫)  先生は、私を鍛えに鍛えてくださった。私を、いかなる嵐にも微動だにしない、鋼のご とき人間へと育ててくださった。  本当に厳しい先生だった。そして、だれよりも温かく、慈悲深き先生であられた。  私は、戸田先生のもとで、信心はもとより、あらゆる学問を学んだ。生きた最高の人間 学、指導者のあり方を教えていただいた。  8月24日──それは、不滅の輝きを放つ「戸田大学」への入学の日でもあったといえ よう。  混迷の時代に  一、入信する10日前、私が戸田先生に初めてお会いしたのは、東京・大田区で行われ た座談会だった。先生は「立正安国論」の講義をされていた。  日蓮大聖人の仏法は「立正安国論」から出発し、「立正安国論」に帰着する。  大聖人が大田の池上で入滅される前、最後に講義されたのも「立正安国論」であったと 伝えられている。  ちなみに、大聖人が、この「立正安国論」を時の最高権力者に提出し、国主諌暁を行わ れた文応元年の7月16日は、当時の西暦であるユリウス暦では、1260年の8月24 日に当たるようだ。  この8月24日は私にとって、大聖人の仰せ通りの「立正安国」を実現しゆく出発の日 となったのである。  「立正安国論」の冒頭には、「旅客が来て嘆いて言うには、近年から近日に至るまで、天 変、地夭、飢饉や疫病があまねく天下に満ち、広く地上にはびこっている」(御書17ペー ジ、通解)と記されている。  私が入信した当時の日本は、この「立正安国論」の一節にも通じるような、悲惨な状況 であった。  敗戦から2年。  戦争による空襲で、東京をはじめ各都市は焼け野原と化した。  生き残った人々は、食料の確保をはじめとして、ただ毎日を生きるのに必死であった。  際限のないインフレの中、、国民の窮乏は深刻を極めていた。当時の新聞には、"収入だ けで暮らせない家庭"が8割以上に達したとの世論調査の結果が、報じられている。  闇市で食料を手に入れることを拒否し、配給のみで生活した東京地裁の判事が「餓死」 するという衝撃的な事件が起きたのは、この年の10月であった。  火山の噴火で20人余りが死亡するといった惨事も、このころに発生している。  荒廃した人心に付け入って、無数の新興宗教が雨後の筍のごとく現れていた。  また、この年には、「原子力科学者会報」に「世界終末時計」が発表された。これは、核 戦争による地球の滅亡を午前0時として設定し、その危険の度合いを残り時間で示すもの である。  この時は、滅亡の「7分前」とされた。  その後、さらに核実験などが重ねられ、終末を意味する午前0時へ向かって、時計の針 は進められた。  こうした混迷の時代に、私は戸田先生の弟子となったのである。  「旗持つ若人」  一、私が入信した当時、学会員の数は、どれくらいであったか。  戦時中の弾圧で壊滅状態に陥った学会の再建に、戸田先生が着手されたばかりの時であ る。  実質、500人から600人ほどであったと記憶している。  学会は、まったく無名の教団であったといってよい。  昭和26年(1951年)5月3日、戸田先生が第2代の会長に就圧された。しかし、 折伏は、遅々として進まなかった。  戸田先生は、「このままでは、広宣流布には5万年かかってしまう」と嘆かれていた。  その中を、戸田先生が待ち望まれていた、広布の「旗持つ若人」として、私が勇んで立 ち上がったのである。  私は、蒲田支部の「2月闘争」、文京支部の大躍進の指揮を執った。そして札幌、大阪、 山口など各地で弘教の大波を起こし、戸田先生の願業であった75万世帯の折伏への突破 口を開いたのである。  戸田先生の後を継ぎ、第3代会長に就任してからは、世界を舞台として広宣流布の新た な波動を巻き起こしていった。  「人間革命」「地球民族主義」「原水爆の禁止・廃絶」など、戸田先生が打ち立てられた 理念を掲げ、その構想の実現へ行動を開始した。  「立正安国論」で示された平和と正義の対話を、私は全世界へと広げた。日本と中国、 日本とロシア(ソ連)、ロシアと中国、アメリカとキューバなど、世界中を「対話」と「友 情」の光で結んだのである。  一、思えば、私が戸田先生と初めてお会いした翌日は、インドがイギリスの植民地支配 から独立した日であった(1947年8月15日)。  戸田先生は「東洋広布」を強く訴えておられた。インドに日蓮仏法が西還することは、 戸田先生の悲願であった。その悲願も、私は成就した。  また私は、これまで歴代の首相や大統領をはじめ、インドの指導者や識者と多くの語ら いを重ね、友情を結んできた。  私は、わが愛する同志とともに走りに走り、今日の1千万の創価の大陣列を築き上げた。 全世界への妙法流布の道を開いた。  日本を見ても、もはや学会に匹敵するほどの民衆の大連帯はない。創価学会は、まさに 「宗教界の王者」、そして希望の「世界宗教」として、威風も堂々と輝いているのである(大 拍手)。 幸福の連帯を広げる女子部を讃えたい  若き乙女は革命児かな  師に賭けた人生  一、日本の宗教社会学の第一人者であった、上智大学の安斎伸(あんざいしん)名誉教 授は語ってくださった。  「平和・文化・教育と多分野に及ぶ名誉会長の50年にわたる広宣流布の努力を見ると き、それは戸田第2代会長に購けた人生と見ることができるのではないでしょうか」  「生命を賭して、時の軍部政府に抗(あらが)い、信仰を貫いた牧口初代会長。その遺 志を継ぎ、戦後の荒野に一人立たれた戸田2代会長。  そうした希有な指導者が賭けた信仰に、名誉会長も賭けられ、その初心、生き方を貫く ことで信仰を深化させ、また深めていくことで揺るぎない信仰の基盤を築かれたのでしよ う」  安斎先生は、学会のことを本当に深く理解してくださった。忘れ得ぬ方である。  今、創価の師弟の大闘争を、世界の一級の識者や指導者が、讃えてくださっている。  〈韓国最大の通信社「連合ニュース」の金興植(キムフンシク)常務理事は語っている。  「思想の根本ともいえる師匠の存在が徐々に忘れ去られていく現代にあって、師の存在 を守り、使命の道を歩み、勝利を導き出すという池田SGI(創価学会インタナショナル) 会長の師弟不二の人生は、すべての人々が"鑑(かがみ)"とすべき大切な価値です」  オーストラリア・オーバン市のラム市長は述べている。  「池田博士が世界中で育成されてきた人材のネットワークは、目を見張るものがありま す。それは池田博士の師匠としての力、なかんずく指導者としての力を証明する一つの金 字塔でもあります」〉  一、牧口先生、戸田先生の願望であった、創価学園・創価大学も、世界的な学舎として 大発展を遂げてきた。  アメリカ創価大学も、「教育の世紀」の希望の旭日として期待されている。  弟子が勝ち栄えてこそ、師匠の偉大さは光彩を放つ。  栄光と勝利で迎えた「8月24日」を、牧口先生も、戸田先生も、心から喜んでおられ るに違いない。  創価の三代は、皆様とともに、勝ちに勝ったと申し上げたい(大拍手)。(4に続く) 8.24記念各部合同協議会での名誉会長のスピーチ 4に続く