2008年9月21日 聖教新聞 随筆人間世紀の光 165 わが尊き同志に贈る歌 上??? 山本 伸一 雄々しき歌声で 新時代を勝ち開け!  創価の師弟の心を 愛唱歌に込めて いざや前進 恐れなく 仏勅の  広布の士気の    音律は  凛々しく賑やか     大行進かな  さあ、前進、前進だ!  文豪ゲーテは歌った。  「新たなる生の歩みを  いざ、踏みいだせ、  明るく澄める心もて。  されば、新たなる歌声  そこに響かん!」  今、全学会に希望の雷鳴のように新しき愛唱歌が生まれ、発表されている。  九月の本部幹部会では、ドクター部の「生命の世紀」、団地部の「輝け『幸福の城』」、そ してスポーツ部の「勇勝の歌」が、躍動する歌声で披露された。  学会歌とともに、歓喜と勝利の舞を──これが広宣流布の前進の実像である。      ◇  勇ましく    また朗らかに     広宣の   足並み揃わむ     常勝ラッパに  昭和五十三年の七月十七日。私は逸る心で、豊中の関西戸田記念講堂へ走った。  この日の記念幹部会で、私が贈ったばかりの「関西の歌」が、正式に発表されることに なっていたのだ。  いよいよ合唱──その瞬間、場内がどよめいた。  壇上正面の壁いっぱいに、歌詞を大書きした幕が現れたのだ。縦約五メートル、横約二 十メートルの超特大である。  幾たびも歴史の大舞台を、人知れず荘厳してくれた、設営グループ「関西鉄人会」の渾 身の力作であった。  しかも、幕の左半分には、懐かしき中之島の中央公会堂が描かれていた。  それは昭和三十二年の七月十七日、あの大阪事件の折、「負けたらあかん!」そして「最 後は正しい仏法が必ず勝つ!」と誓い合った会場だ。その絵を見つめて歌う同志の瞳に、 熱くあふれるものがあった。 ♪今再びの 陣列に  君と我とは 久遠より  誓いの友と 春の曲  愛する関西 勇み立て  …………  いざや前進 恐れなく  我とわが友の「師弟の歌声」が轟きわたった。     ◇  厳として    邪悪な輩を      許すまじ  正義の我らは      万年までもと  この昭和五十三年の当時、第一次の宗門事件の凶暴な嵐が荒れ狂っていた。  そもそも、創価学会の赤誠の外護によって、大興隆を遂げた宗門ではないか。  その宗門が、反逆の悪人と結んで、学会を攻撃したのだ。  どれほど狂気の沙汰であったか。彼らの所業は、創価の師弟の絆を破壊せんとする謀略 であった。学会員を奴隷のように屈服させようという魂胆であった。  全国各地の寺では、冷酷無惨な坊主が学会員をいじめ抜き、迫害し抜いていた。  それでも、わが同志は、悔し涙で歯がみしながら、理不尽きわまる悪口中傷に耐えて耐 えて、蓮祖大聖人に直結の「創価の旗」を護り通した。  まさに「軽毀罵詈(きょうきめり)」の迫害を忍受した、不軽菩薩の修行そのものであっ た。  恩師は、「創価学会の組織は、戸田の命よりも大事である!」と師子吼された。  この至高の師弟の結合を、下劣な悪党どもに踏みにじられてなるものか!  この渦中にあって、私は関西の歌「常勝の空」をはじめ、次々に方面・県などの愛唱歌 を作っていった。  学会員を護るためならば、同志を励ますためならば、生命も惜しくない。  日蓮大聖人の仰せのまま、我らは、広宣流布のために、「師弟不二」「異体同心」で、戦 い進むのだ!──  私は、その叫びを託して愛唱歌を作ったのである。  「雷よ、はえるがよい、それなら、私はいっそう強くほえかえすから」  文豪ビクトル・ユゴーの不撓不屈の宣言である。      ◇  関西での行事を終えた私は、七月十九日の午後、京都駅から「ひかり7号」で岡山へ向 かった。 ?移動の車中でも  その車中で取り組んだのが、「九州の歌」であった。  実は、この時、九州の新布陣が決まり、代表が岡山に集うことになっていた。その門出 に、ぜひとも歌を贈ってあげたかったのだ。  題は「火の国の歌」──その題名の如く、詩句は火を吐くようにはとばしり、一気に歌 詞が完成した。  妻が横書きの便箋を縦喜きに使い、清書してくれた。  行く先々で、各地の愛唱歌を発表する。これが、この昭和五十三年の夏から秋へ、私が 自らに課した戦いの一つであった。  岡山文化会館(現・岡山南文化会館)に到着するや、「中国の歌を作るよ!」と、そのま まロビーに座っ て作詞を開始した。  出迎えてくれたリーダーたちも驚きの表情を浮かべながら、私を取り囲んだ。  有志が準備した原案が届けられていた。弟子が真剣に作った歌詞なればこそ、師は真剣 に手を入れる。  沸き上がる詩想のままに、赤鉛筆を走らせると、みるみる草稿は真っ赤になった。五分、 十分……歌詞がほぼ固まったところで、いったん手を止めた。  そして地元幹部との懇談に続き、九州の友との協議会へ。そこで、出来上がったばかり の「火の国の歌」の歌詞を手渡した。  「九州は、気取りはいらないよ。そんなもの、一切かなぐり捨てて戦うんだ。二番の歌 詞の『先駆の九州 いざ楽し』──この心が大事なんだ」     ◇  大音楽家ベルディの名作に、イタリアのパレルモを舞台とした歌曲がある。  私が名誉コミュニケーション学博士号を拝受した、名門パレルモ大学を擁する地中海の 宝石の天地だ。  十三世紀、邪悪な権力者に支配されたパレルモを取り戻すため、勇者が戦いを誓う歌詞 の一節があった。  「ああ 侮りを  いつまで忍ぶ」  「いざ立て 立てよ  勝利を目ざし  いざ立て 栄えと  勝利を目ざし」  権力とは、所詮「権りの力」に過ぎない。その正体を見破れば、何を恐れることがあろ うか。民衆の勇気の歌声の前には、幻と消え去る。  御聖訓には、「各各師子王の心を取り出して・いかに人をどすともをづる事なかれ」(御 幸一一九〇ページ)と仰せである。  「九州の歌」が完成したこの夜、千葉県の館山では、房総圏の総会の席上、関東で第一 号となる「千葉の歌」(「旭日遙かに」)が晴れ晴れと大合唱された。  これは「関西の歌」と同時並行で、私が作詞を進めてきた歌で、既に贈ってあったので ある。      ◇  翌七月二十日、私は伯備(はくび)線の特急「やくも3号」で、“山光”鳥取の米子へと 向かった。約二時間半の旅である。  車中、前日に作った「中国の歌」の推敲を重ねて、ひとまず区切りを付けた。  妻は、私の体調を案じて、ほっとした表情を浮かべた。しかし、私は言った。  「さあ、次は四国の歌だよ!」。身は移動の列車にあっても、心は愛する四国にあった。 「四国の天地は  我が天地」と、口述を重ねて完成させたのである。  私は必死だった。夕刻、米子文化会館に着くと、直ちに「四国の歌」を現地に伝えてい ただいた。  鳥取は五年ぶりである。会館の庭では、友の真心を映したかの如くホタルが飛び交い、 美しき夢幻の舞を見つめて、歓談が弾んだ。  その合間に、曲のついた「中国の歌」のテープを聴きながら、懐中電灯の明かりのもと で歌詞を再チェック。数カ所、直して、遂に完成となった。 ♪轟く歓喜の 中国に  広布の船出も      にぎやかに  …………  進み跳ばなん     手と手 結びて  「どうかな? 中国の同志は喜んでくれるかな」  その場にいた皆の笑顔が光り、拍手が夜空に舞った。  天に皓々たる満月。伯耆(ほうき)富士・大山のシルエット。  地にはホタルの乱舞と同志の歓声……一生涯、忘れ得ぬ美しい思い出だ。  米子の第二日も多忙。  幾千人の同志をお迎えしながら、完成を急いだのが、「中部の歌」であった。  三日目の七月二十二日には、中国の歌「地涌の讃歌」が正式に発表された。黄金のヒマ ワリが会場を彩った、忘れ得ぬ本部幹部会の席であった。 ?「時」を逃さず!  会館のロビーで、移動の車中で、同志と懇談の席で──歌の作成は、時も場所も選ばな かった。  会員の喜ぶ顔を思い浮かべ、歌を紡ぐ。詩を絞り出す。一瞬の後には、同志の輪の中に 飛び込んでいく。 “今しかない! 今この時しかない!”──その連続闘争だった。  「なぜ、そんなに次々に歌や詩ができるのですか」と聞かれたことがある。  私は即座に答えた。  「みんなだってできる。  本気で同志を励まそうと、腹を決めるならば!  本気で魔を断ち切ろうと、死に物狂いで戦うならば!」  君も立て   我も征かなむ      師弟不二   広宣流布の      なんと尊き (下は明日付に掲載予定)  ゲーテの言葉は「ファウスト」(『ゲーテ全集3』所収)山下肇訳(潮出版社)。ユゴーは 「我行かん」(『ユゴー詩集』所収)辻昶・稲垣直樹訳(潮出版社)。ベルディィ歌曲の歌詞 は「シチリアの晩祷」(『世界大音楽全集5』所収)徳永政太郎訳(音楽之友社)。 随筆人間世紀の光 165 わが尊き同志に贈る歌 上〔完〕