2008年10月2日付 聖教新聞 あの日あの時3−4 池田先生と北関東(群馬・栃木・茨城)  栃木新聞社へ  栃木新聞社のトップが、家に帰るなり、家人に口を開いた。  「いやいや、びっくりしたな、きょうは......」  1956年(昭和31年)の夏である。  1歳になったばかりの孫を膝に乗せて、その日にあった出来事を振り返るのが常だった。  「東京から、うちの新聞社まで来た青年がいてね。会ってみて驚いた。若いけれども、 すごくしっかりしている」  高ぶる感情を隠しきれない。さも愉快げに目を細め、言葉を継いだ。  「すごく偉い青年が出たな。たいした人間が出てきたもんだな」  事件慣れ、ニュース慣れしている新聞人を、そこまで魅了する人とは。  「池田さんというそうだ」     ◇  「創価学会の実体」  栃木新聞の3面トップに、大見出しをつけた記事が報じられたのは、その年の7月12 日である。  あの「大阪の戦い」で、池田室長が白木義一郎を勝ち上がらせた直後である。  衝撃の波紋は栃木にも及んだ。「異色、白木元投手(創価学会)当選」と報道した数日後 に、くだんの3面記事が掲載されたのである。深い取材もせず、学会を排他的で、悪質な 団体と決めつけていた。  22日にも中傷記事の続報を大きく載せている。     ◇  黙っていなかったのは、青年部の池田室長だった。  大阪で「まさかが実現」した直後だが、勝利の余韻にひたる暇もない。秋には西に転戦 し「山口闘争」に討って出る。その間隙を縫って宇都宮へ飛んだ。  その渉外戦には共通した要諦があった。  予兆を見過ごさない。  電光石火のスピード。  トップに会う。  人に頼らない。  単身で乗り込む。  大誠実で語る。  栃木新聞への抗議も、すばやかった。たった一度の出会いで、トップに鮮烈な印象を残 したのである。  草津の研修道場  地図を広げてみる。茨城。群馬。栃木。北関東3県は、日本列島のど真ん中に位置する。  街道、鉄道、高速道路が、心臓につながる血管のように東京へ伸びている。首都を支え る要である。  57年(昭和32年)8月14日、池田室長は戸田会長が静養している軽井沢へ向かっ た。  19歳で戸田会長と出会って、ちょうど10年。その当日である。  群馬県側に入り、浅間山の鬼押出しの景観をながめた。ここはまた戸田会長が、かつて 牧口会長と連れ立って訪れた地でもある。恩師は、ことのほか懐かしそうだった。  「あっちには草津がある。そこで人材を気宇壮大に育てたいものだ」。北を指さした戸田 会長。  「学会も研修の道場をつくりたいものだな......」     ◇  草津。池田室長には少年期の思い出があった。  ──小学校で担任の桧山先生が、日本地図の中央を示した。栃木生まれで北関東の地理 に明るい。  「ここは草津という場所だよ」「日本を代表する温泉が出る」「らい病(ハンセン病)と いって、気の毒な人の療養所もある」  その記憶もあり、戸田会長に質問したことがある。  学会として、こうした病と闘う人々に、どのように関わっていくべきか......。  当時は、偏見が根強かった。しかし、恩師の答えは慈愛に満ちていた。  「一番苦労してきた人たちなんだから、手を差しのベるんだ。そういう人の味方になっ ていくのが学会の使命だ」     ◇  川上昌平は戦後、草津にある粟生楽泉園で働いてきた。ハンセン病患者の施設である。  昭和30年代から、園内に学会員が増え始めた。雰囲気が違う。明るい。座談会も園内 で開かれた。地域の学会員が何の屈託もなく訪れ、入園者と語り合っていく。川上は60 年(昭和35年)に入会した。第3代会長の就任の年であった。  「群馬多宝研修道場」が完成したのは93年(平成5年)の夏である。  名誉会長は語っている。「草津に研修道場をつくって題目を唱えれば、病気の方々にも通 じる。地域も繁栄する。戸田先生の心に、お応えできる」  この地を訪れると、研修の合間に周辺をまわり、大地に染み込むように題目を唱える。 健康都市、文化都市の発展を祈り、貢献を重ねてきた。  勇猛精進の名刺  師走の寒気団が、冠雪した北関東の山々を包み込むように降りてきた。  75年(昭和50年)12月の下旬。名誉会長は栃木・群馬を大きく動いた。  栃木文化会館を出発し、那須の関東総合研修所(現・栃木研修道場)。 そこから南下して佐野会館へ。恩師が戦後初の地方指導で通った道と重なる。  群馬県に入って太田会館(太田市)、伊勢崎会館(伊勢崎市)、群馬センター(高崎市)、 藤岡会館(藤岡市)。  12月24日から28日までの5日間で7会館を回った。  関東総合研修所での開所式。白髪の壮年と目が合った。「しばらくですね。おいくつにな られましたか」  足利から来た館内寛三。背筋をシャキッと伸ばした。「73歳になります!」  ──55年(昭和30年)、池田室長が担当した埼玉での会合。帰りの電車に室長がいた。  話しかけていいものか、館内がもじもじしていると声が飛んできた。「おとなしそうです ね」  サッと懐から名刺を抜きだし、さらさらとペンを走らせた。「勇猛精進」  今にも文字が飛び出してきそうな気迫である。黙っていては駄目だ。勇ましく! 猛々 しく!  館内は人が変わったように会員を励まして回った。いつしか「家庭指導の名人」と呼ば れるようになった。  「ミスター73歳! お変わりありませんね!」  黄門様と花道へ  8カ月後の76年(昭和51年)8月14日。茨城の水戸婦人会館。  名誉会長が時計に目をやった。まもなく短針が夜の8時を指そうとしている。「ちょうど 戸田先生とお会いしている時間だよ」一同、はっとした。  29年前に恩師と出会った日である。蒲田の糀谷で座談会があり、そこで戸田会長の御 書講義を聞いた時刻だった。  「きょうはテストをするよ。『師弟邂逅の日』と書いてごらん」。居合わせた青年に問い かけている。  壮年に認めた揮竜にも「恩師と邂逅せし今の日 水戸の地にて」「その日を偲びつつ一詩 を贈る」と書き添えた。  峻厳な一夜になった。     ◇  翌15日。「茨城郷土文化祭」が開かれた。この日は終戦記念日である。  名誉会長は戦時中、霞ケ浦へ足を運んでいる。  「予科練」(海軍飛行予科練習生)の知り合いの先輩に会いに行った。国鉄・上野から蒸 気機関車で2時間ほどかかったか。当時の予科練は少年の憧れだったが、多くの若い命が 海と空に散った。  32回目の終戦の日。平和のために立ち上がる青年を見守った。  演目の随所に郷土色があふれ、関東の他県から来た幹部も目を見張った。  フィナーレの後、名誉会長はステージヘ。出演者の中に「水戸黄門」の役を演じた少年 がいた。自らの胸章を外し、彼の胸に飾った。「それでは、水戸黄門と二人で、私も帰らせ ていただきます」  黄門様を前に立て、後ろから助さん、格さんのように、ヨイショ、ヨイショと花道を退 場していく。場内は爆笑の渦である。  ひかえおろう、この創価の紋所が目に入らぬか!水戸黄門のごとく、庶民をいじめる邪 悪を倒せ!  そんなメッセージが伝わってくる痛快無比なエンディングになった。  「茨城の人たちが尊敬している黄門様を大切にすることで、茨城の全学会員に敬意を表 したんだ」      ◇  折々に語っできた。「私は遠い地域から手を打っていく。牧口先生も、戸田先生も、一人 の同志のために、関東に足を運ばれた」  だからこそ栃木で、群馬で、茨城で、一期一会の出会いに全魂を注いできた。  「私と同じ使命と敢闘精神を持つ関東だ。関東は、私とともに戦ってもらいたい」  北開東よ、討って出よ!  完勝の方程式が、ここにある。 あの日あの時3−4 池田先生と北関東(群馬・栃木・茨城)〔完〕