2008年10月8日付 聖教新聞 池田先生と大阪2(東淀川・淀川・西淀川・此花) 電光石火のスピードで勝て 第1回の大阪入り  大阪・東淀川区の木造アパート新光荘。  その2階の一室で、ほんの1カ月前に入会した鈴木光丸は首をひねった。  「こんなボロアパートまで来る東京の偉いさんって、どんな人やろう?」  1952年(昭和27年)8月17日の日曜日。  新光荘は阪急・上新庄駅のすぐ近くにある。通勤客に声をかけ、8人の新来者を集めた。 初めて開く座談会である。  「こんにちは。失礼します」  午後1時前。  歯切れの良い声。  鈴木はチラリと「東京の幹部」を見た。三人いる。年配が二人。人相悪いおっさんらや なあ。  もう一人は青年だった。目に力がある。姿勢が良い。スマートだ。  池田と名乗った青年は、正座していた丸刈りの子どもに話しかけた。「お兄ちゃん、今日 は難しい話をするから、足を楽にしなよ」  場の空気がフワッと軽くなった。「座談会」って楽しいもんやなあ。鈴木が青年の方ばか り見ているうちに、気が付くと5人が入会を申し出ていた。  年配の二人は、そそくさと帰ったが、青年は最後まで残り、話し相手になってくれた。 鈴木は嬉しくなり、駅までついていった。  鉄工所の仕事で脊髄を痛め、歩くスピードが極端に遅い。人から小馬鹿にされ、いつも 嫌な思いをしてきた。しかし青年は、その歩調に合わせてくれる。駅前まで10分もかか った。  「私は結核です。医者から『30まで生きられない』と言われた身です」  それでも、ここまで人のことを思いやれるのか。  名誉会長の関西入りは258回に及ぶ。その最初の訪問での一コマである。  台風の被災地へ  淀川に架かる橋の鉄柱が飴のように曲がっていた。道ばたには腐った畳が、山のように 積まれている。  1961年(昭和36年)9月16日、近畿を直撃した「第2室戸台風」。  西淀川区は堤防が切れ、泥の海と化した。  死者194人、床上浸水は約12万3000戸、床下浸水約26万1000戸を数えた。  「青年部を中心に、至急、救援本部を立ち上げよ」。池田会長からの指示だった。西淀川 区の栗原実宅が救援本部となった。  救援隊は、よく鍛えられていた。会長が「大阪の戦い」で手塩にかけたメンバーである。 この修羅場でも、会長直伝の薫陶が、いかんなく発揮された。  第1に徹底した現場主義。「ビール瓶を集めろ。次に大根2本だ。それに、いかだを作れ!」  ビール瓶にお茶を注ぎ、大根で栓をした。流れてきた戸板で、いかだを作った。  第2に電光石火のスピード。自衛隊よりも早く現場に到着し、周辺情報を集めた地域も あった。  第3に時を逃さぬ総力戦。数時間で集結したオール関西の精鋭が団結し、おにぎり、カ ンパン、毛布を、被災地の隅々にまで届けた。     ◇  19日、会長は大阪入りしていた。「大阪事件」の公判のためである。最終陳述まで3カ 月。法廷闘争は最終盤にさしかかっている。  被災地には、苦楽を共にした同志が暮らしている。  東淀川。淀川。西淀川。「三淀」と呼ばれる一帯だ。  56年(昭和31年)の「大阪の戦い」。オートバイの後ろに乗って阪急沿線の商店街な どを飛び回った。  57年の「大阪事件」では、身を案じて大阪拘置所の周りを歩き回る西淀川の人々もい た。  中之島の公会堂の「大阪大会」。淀屋橋駅から公会堂まで長蛇の列ができていた。東淀川 の婦人が並んでいると、早足で近づく人がいる。  「ただいま池田が戻ってまいりました」  深々と頭を下げる室長。たちまち力強い学会歌が沸き起こった。     ◇  22日の朝。栗原宅の電話が鳴った。  「今日、池田先生が、そちらに向かいます」  まさか。つい数時間前、水が引いたばかりの地域もある。  会長が関西本部を出発したのは午前10時。30分で着くはずだが、11を過ぎても到 着しない。  被害甚大の報を聞き、急きょ、淀川河口に近い此花区西九条を回っていたからである。  海抜ゼロメートル。阪神工業地帯の中心。道路には家具が散乱していた。  被災現場を自分の目で確かめた。       ◇  栗原宅。到着した会長を囲んだのは入会まもない会員たちだった。  「ご家族に、けが人や病人はいませんか。信心第一に立ち上がり、必ず変毒為薬してく ださい」  長靴の会長が一人また一人と握手する。ヘドロの悪臭が鼻をつこうが、相手の服が汚れ ていようが、気にもとめない。  一人の婦人は思った。  戦争で家が焼かれ、死も考えた。入会して、人並みの暮らしができるようになったと思 ったら、水害でまたやられた。けれども、それが何だ! 私たちには、泥を掻き分けて会 いに来てくれる人がいる。  次の地点へ移動するため、車に乗った。見送りの一団に、小児麻痺の娘を背負った母親 がいた。  腕まくりした手を即座に窓から伸ばす会長。その指先が、少女の小さな手に届いた。  車が走り出す瞬間まで、その手は固く握りしめられていた。  斜め向かいで開業している町医者が、ガラス越しに見ていた。それまで学会とは距離を おいていたが「あの人が会長さんか。立派な人やなあ。トップが泥まみれになって会員を 励ましている。私は間違っていた。とんでもないことだ」  会長の車が動き出した。「次は大和田に行こう」ドライバーは一瞬、ちゅうちょした。そ こだけは......。  だが気迫に押され何も言えない。 大和田は最も深刻な被災地である。神崎川と大野川に挟まれ、家もろとも人が流された。 化学工場が水につかり、危険だった。  それでも会長は現場に向かった。  その日の午後、大阪地裁での第76回公判。着替える時間もない。会長は袖口に泥がは ねたシャツを着たままで、法廷に立った。 258回目の訪問  阪急・十三(じゅうそう)駅。  にぎやかな商店街の一角に「洋食 満」はあった。  店主は、学会員の小倉その。ハンバーグとハヤシライスが絶品だった。  電話番号がいい。「37−8166」。「みな入ろう」の語呂合わせで人気を呼んだ。  洋食屋は、休日に座談会場になる。商売繁盛の結果、個人会館を建てた。1960年(昭 和35年)5月2日に定礎式を行った。  そのまま小倉は夜行列車に飛び乗り、第3代会長就任式に参加した。     ◇  74年(昭和49年)10月21日。落成間もない新大阪会館(現・新大阪文化会館) に小倉がいた。  この日、池田会長は関西文化会館で要人と対談した後、帰京する予定だった。新幹線の 時間は、もう変えられない。  「なんとか、立ち寄ってもらえんやろか」  小倉をはじめ、広間に集った友の題目に、力がこもった。  1階から男子部の明るい声。「先生がお見えになりました」  階段を駆け上がってくる音。会長だった。  「今日は時間がないので、一緒にお題目を三唱しましょう」  一分一秒でも時間を割いてくれる。朗々とした声が響く。次から次へと会員を激励する や、風のように新大阪駅に向かった。      ◇  淀川区の新大阪駅。  1964年(昭和39年)の開業以来、幾度となく利用してきた。駅長と親しく語らっ たこともある。  2007年(平成19年)11月4日、名誉会長が降り立った。7年ぶり、158回目 の関西訪問である。  通路に画した喫茶店の中から、気づいた婦人部員が大きく手を振った。  立ち止まり、深々と頭を下げる。  突然、歩みを止め、再び頭を下げる。同行の幹部も気づかなかった場所に、駅の関係者 がいた。  すれ違う子どもにも笑顔で声をかける。  21世紀初めての関西指導は、こうして始まった。      ◇  9日間の全日程は順調に進み、帰京の日となった。  11月12日。ぎりぎりまで懇談を続け、同志への揮毫を認めていた。  新大阪駅到着は、発車数分前だった。  エスカレーターを上がると、プラットホームに見送りに来たメンバーが並んでいる。  発車のベルが鳴る。  名誉会長が、関西の幹部の前で足を止める。最後の瞬間まで、激励は、やむことがない。  もう発車ベルが鳴り終わろうとしている。  愛する関西のためならば!  初訪問の時から微塵も変わらぬ姿があった。  名誉会長の背中が吸い込まれたとたん、ドアが閉まり、新幹線が走り出した あの日あの時 3−5     池田先生と大阪2(東淀川・淀川・西淀川・此花)〔完〕