2008年10月15日付 聖教新聞 あの日あの時 3−6 池田先生と東北 走り出したらトップを切れ  エプロン姿の室長  秋空に号砲が鳴った。  東京・下高井戸の日大グラウンドで、斎藤恵子は勢いよくスタート地点から飛び出した。  1956年(昭和31年)9月23日、第3回「若人の祭典」。仙台から参加した斎藤は、 東北の仲間の声援を浴びながら走った。  スタートから25メートル地点に置かれた封筒を開ける。中の紙を見て、びっくりした。  「池田室長にエプロンを着せ、姉さんかぶりをさせ、ホーキ、ハタキを持たせて」  場内の人物を変装させ、ゴールまで引っばる「借りもの競走」だった。  グラウンドの真ん中から目をこらす。室長を探すが、幹部席にも放送席にもいない。迷 っている場合ではない。紅白幕の前にいる戸田会長のもとへ走った。  「池田室長は、どちらにいらっしゃいますか」  「この幕の後ろにおりますよ」と会長。  幕をくぐると、舞台裏で運営の指揮をとり、黒子に徹している。  「室長! こうなってます!」。競技の指示が書かれた紙を見せた。  「そうか。よし!」  紅白幕の後ろから飛び出した。  白いトレパンの上から、急いでエプロンをつける室長。小道具も手にして、指示書どお りに早変わりした。全力疾走。1位でゴールのテープを切った。  場内はやんやの大歓声である。  室長は斎藤と賞品授与の列へ。「お名前は」「どこから来たの」。矢継ぎ早に質問しながら、 東北が一番になったことを心から喜んでくれた。「じやあ、また!」。サーッと紅白幕の裏 に戻った。  いつまでも斎藤の胸に感動が残った。大イベントを運営しながら、とっさの申し出に、 ニコニコ応じてくれた。  なによりも勝利への執念が、びんびんと伝わってきた。ユーモラスなレースである。し かし室長に遊びはない。全力だった。  どんな競争だろうと、いったん走り出したらトップを切れ! 体を張って東北に教えて くれた。      ◇  翌57年(昭和32年)9月8日の「若人の祭典」にも斎藤は宮城のメンバーを率いて 参加した。横浜にある三ッ沢の競技場。「原水爆禁止宣言」が発表された祭典である。  仲間を池田室長に会わせたい。大会終了後、分刻みで動いている室長を、ようやくつか まえた。  「室長、仙台から来ました。皆が待ってます!」  「仙台か! わかった。すぐ行こう!」。身をひるがえして、広い駐車場を一目散に走り 出した。  今まさに、宮城のバス5台がエンジンをかけようとしている。  「ご苦労さま! またお会いしましょう」。窓越しに大きな声で呼びかけた。車内が、ど っとわいた。  動き始めたバスを小走りで追いかけ、両手を大きく広げる。1台、2台、3台......。 すべてのバスが遠く見えなくなるまで室長は手を振った。  黒田節の面接試験  ちょうど50年前の1958年(昭和33年)11月、池田総務は東北4県を駆け抜け ている。  秋田、青森、福島、山形。  焦点は、青年だった。  同年4月、戸田第2代会長が逝去。恩師亡き後、初の東北指導では、青年部を登用する 面接指導に全力を注いだ。  拠点に3人の男子部員が呼ばれた。ほどなくして現れた池田総務。後ろには支部長をは じめ、幹部がズラリと居ずまいを正している。ただごとではない。いったい何が始まるの か......。  ねぎらいの言葉をかけた総務は、3人に言った。  「黒田節を舞いなさい」  黒田節。やったこともない。なぜ、ここで?  ちゅうちょしながら、一人ずつ立ち上がった。こわれた人形がギシギシ音をたてるよう な動きである。  「君たちのは舞ではない。舞というのは、こうやるんだ」  総務が扇子を手に舞い始めた。まるで若鷲である。  両腕が美しく弧を描く。翼を広げた鷲が、大空へ飛び立つようなスケールがあった。  すげえ。こんなの見たこたねえ。ぶったまげた!  「では部隊長として戦う覚悟のある人!」  扇子を置いた総務の言葉に、3人の手が、いっせいにあがった。  壮年・婦人が強く、青年が一歩、後ろを歩くような組織だった。それでは発展は望めな い。  青年が前面に躍り出る東北に変えたかった。  「すげがったな! あれが大将軍の姿だ。情熱というもんは内に留めておくんではなく、 外に出さないといけねんだな」。いつまでも語り草になった。     ◇  どの拠点でも、総務を囲んで歌声が沸き起こった。  武田節、人生の並木道、ふるさと、大楠公、一高寮歌──。しかし刹那的な、運命や時 代を嘆くような歌謡曲は、総務が制した。  「その歌は、やめよう」  感傷を嫌った。広宣流布は戦いなのだ。弱々しい哀音の響きに引きずられてはならない。 前へ! 前へ!  明るく、晴朗な心を植えつけた。  55年(昭和30年)の「札幌・夏の陣」に東北の港町から馳せ参じた女子部員も総務 と再会した。  「やがて学会の本が、書店にずらりと並ぶ。今から本を読むクセをつけておきなさい」  札幌で聞いた指導が忘れられず、自分なりに教養を身につけるように心がけてきた。港 町の娘に、夢のある未来を語る人など、ほかに誰もいなかった。     ◇  「世界をつくる青年は絶対、負けてはいけない」(秋田)  「青森の青とは青年の青である」(青森)  東北人の魂を射抜く指導を残した。山形を初訪問。青森と福島にも支部旗を立てた。  2年後の60年(昭和35年)11月には、山形と岩手の支部結成大会に出席し、東北 の礎を盤石にした。  歌でも一番になれ  池田総務が、いよいよ第3代の会長に就任する機運が高まったころである。  東京の学会本部に、婦人部の代表が集まっていた。  総務が場内に呼びかけ、それぞれの地域ごとに婦人部の歌を合唱することになった。  何曲か披露された後で、伊藤哲子(秋田支部の初代婦人部長)を見つけた。  「なんだ哲子さん、来ているじゃないか。あれを歌いなさい」  「あれ」──。伊藤は、はっとした。まざまざと記憶がよみがえる。  58年(昭和33年)11月、秋田支部で婦人部の歌を発表したことがある。総務は「い い歌だ」とほめ、自ら歌の指揮もとった。  この時、学会本部にいた秋田の婦人部は、伊藤と、もう一人。顔を見色わせ、意を決す る。すると「僕が指揮をとるから」。総務が立ち上がった。  これは大変なことになった。二人は腹の底から声を振りしぼった。そこに男性の声が混 じってくる。張りのある総務の声ではないか。指揮をとりながら唱和している。  たった一度しか聞いていないはずなのに、秋田婦人部の歌を覚えてくれていたのである。  3人になった歌声が、学会本部の広間にひときわ力強く響いた。 ♪春まだ浅き秋田支部  功徳あふれるこの部屋で  胸を開いて語らえば......  各地域が歌い終え、どこが一番よかったか、決めることになった。  場内からの多数決で順位を決定する。  東京の参加者が多かったので、やはり1位は地元・東京になった。  「あー、残念だ。秋田は2位か」  総務は心の底から悔しがっている。  伊藤は感激した。  東京に負けるな!  東京を追い越せ!  私がついている。なんでも一番になれ!  東北に対する総務の願いを、強く感じた。  津軽のSUA1期生  創価大学。出身地ごとに県人会がある。東北から上京した学生たちは、結束が固い。  創立者のスピーチなどを教材に、東北の歴史や文化を学び合う。  人気講座「トップが語る現代経営」。  東北の企業から講師を迎えるとなれば、前列に陣取り、横断幕をつくって大歓迎する。  SUA(アメリカ創価大学)1期生のアリソン・リード。青森県五所川原市の小中学校 で、英語を教えている。  SUA卒業後、カリフォルニアから津軽へ。子どもたちの視野を海外へ広げ、世界市民 が羽ばたくことを願っている。  リードの両親は、アメリカ広布の草分け。今は座談会で津軽のじっちゃ、ばっちゃに信 心を学ぶ。  「『題目しかねぇべな』って、いつも教わります。頑張ねばまいね」  土地の言葉も、すっかり板についた。  「外国青年による津軽弁大会」の常連で最高賞に2度も輝いた。いまや英語の次に堪能 なのは、津軽弁である。      ◇  ある時は共に走った。  ある時は共に歌った。  誰よりも東北を愛する心は、若い世代に引き継がれている。 ????????? あの日あの時 3−6 池田先生と東北〔完〕