2008年10月23日付 聖教新聞 あの日あの時 3−7 池田先生と九州 天あり 地あり 師匠あり  師匠の年賀状  「おい、あんたに、すごい方から届いているぞ」  1980年(昭和55年)元旦。大分の山あいにある九重町の郵便局長が佐藤宏八を呼 び止めた。もともと親しい間柄だけに、親切心から伝えずにいられなかった。  呉服店を営む佐藤。年末年始の配達のアルバイトに来ていて、今まさに自転車に飛び乗 るところだった。  「驚くなよ」  郵便局長が一通の年賀状を渡した。  「差出人は、池田大作さんだ」  目を疑った。平凡な支部長の自分に、なぜ池田先生から......。  第3代会長のいない正月は、あまりに暗かった。前年4月の辞任から何もいいことがな い。組織は檀徒にズタズタに引き裂かれ、寺の坊主に面罵された。信じていたはずの仲間 にも裏切られた。  大分は第1次宗門事件の激震地。  九州の学会員は名誉会長の訪問を待っていた。待ちわびていた。だが、まだ大きく動け ない。  「悲しく、つらい思いの大分に、何かできないか」  九州の幹部と話し、支部長と婦人部長に年賀状を書くことにした。百数十人の名前があ がると「少ない。もっと書いてあげよう」  80年の元旦。郵便ポストを開けた200軒以上の家々で、驚きの声が上がった。暗い 正月に久方ぶりの太陽の光が差した。  香峯子夫人と揮毫  81年(昭和56年)12月11日。大分平和会館の50畳の広間。池田名誉会長は、 香峯子夫人がすった墨を筆にふくませた。  別府から届いた巻紙が広げられていた。380人余りの師弟の誓いと署名が記されてい る。巻紙の余白に「大分広布乃誓」と筆を走らせた。  九州の幹部を招く。  「こういう思いの同志が、もっともっといるはずだ。私に教えなさい」  まず大分市の近藤健士の名前を聞いた。魚の行商で身を立てながら、寺の総代として坊 主の暴虐に耐え忍んでいる。  「よし!」。筆を執り、色紙に「近藤桜」と、したためた。  「もっといるだろう!」  「佐田桜」。佐田俊夫。寺が切り崩す組織をこつこつと回っている。  「中村櫻」。中村正大。妻と二人で檀徒の謀略に立ち向かっている。  「吉田桜」。吉田庚子。女手ひとつで育てた息子からも師への誓いの手紙が来ていた。  「次は!」  「その次は?」  たちまち色紙の山がなくなり、和紙が用意された。  香峯子夫人は墨をすりながら、書き上げられたばかりの揮毫を乾かす。40枚、50 枚......。広げた色紙と和紙で畳が見えなくなる。筆は止まらない。名誉会長の額に、う っすらと汗が浮かんでいた。  鹿児島新報の記者  鹿児島新報社の社員は、しばしば不思議な思いにかられた。  聖教新聞の印刷を受託してきたが、よく差し入れが届く。夏の暑い日はアイスクリーム、 冷たい飲み物。疲れがたまる季節には甘い団子。名誉会長からだった。  小さな県紙。遠い鹿児島まで気を配ってくれる東京の人など少なかった。     ◇  72年(昭和47年)9月、同新報の記者が鹿児島県・霧島にある学会の研修道場を訪 れた。  役員から入浴をすすめられ、浴室へ。湯気の向こうから声がする。  「みんな、待ってたよ。のぼせちゃったよ」  この声は......。名誉会長が青年たちと湯船につかっていた。  「一緒に歌おうよ」  浴室の天井に歌声が反響する。大組織のトップといえば幾重にもベールに包まれている ものだが、なんの壁も隔たりもない。  風呂上がりにキャンプファイアを囲んだ。柿の実公園と呼ばれる広場だった。  「桃粟3年、柿8年である。柿は実がなるまでに8年かかる。じつくり育てばいい。苦 労して大きく実がなったら、また種となって苦労していく。それくらいの気持ちでいい」  学会の青年たちが伸びている理由の一端を見た思いだった。     ◇  同新報は2004年5月、不況のあおりで廃刊した。鈴木了五社長は重い足どりで上京 する。迷惑をかけてしまった。厳しい指摘も覚悟の上で聖教新聞本社の前まで来た。  正面玄関。ガラス越しに多くの青年が集まっている。学会の最高幹部が待ちかまえてい る。  しまった、大切なお客があったのだろうか。だが、後ろには誰もいない。  まさか自分を?  ロビーに入ると、温かいねぎらいの声を浴びた。鈴木は呆然と立ち尽くした。  すべて名誉会長の心遣いだった。  光る創大出身者  本年9月7日、九州石油ドーム(大分市)を2万人のサポーターが青一色に染めていた?  サッカーのナビスコカップ準決勝の第2戦。「大分トリニータ」が1対0で逃げ切り、コ ーチの柳田伸明(圏男子部長)も選手たちと抱きあった。  日本一をかけた国立競技場での決勝戦(11月1日)に駒を進めたのだ。  2000年、柳田はトリニータに招かれた。チームは、3年連続でJ1昇格を逃した。  下を向く柳田を男子部の先輩が励ました。「落ち込むな。原点に立ち返れ!」。長編詩「青 年よ 21世紀の広布の山を登れ」。九州の友が、何かあるたびに立ち戻る原点だ。  創価一貫教育で学んだ柳田。創立者の言葉が蘇る。「不屈の挑戦王たれ!」。そうだ。今 こそ、その時だ。  「勝つまで挑戦をやめるな。手を抜いた分だけ結果は出ない!」。スター不在のチームに 団結が生まれた。02年、大分はJ1昇格を果たした。  宮崎国際大学を創立した大坪久泰。  英語でリベラル・アーツ教育を行う日本初の学府である。英語だけで講義する斬新な方 針に、批判のビラをまかれたこともある。  その時、創大出身の若い教員が声をかけてくれた。「貫き通すことです。何が正しいのか 皆が分かる時が、必ず来ます」  彼を通じて、名誉会長から伝言が届く。「大学を創立した一人として、ご苦労はよく分か ります。創大生を立派に育てていただき感謝しております」  大坪が唸った。「創立といっても我が校は一地方の大学だ。スケールが違う」  大学を巣立った後も卒業生を温かく見守っている名誉会長に、創立者の心を学んだ。  山本伸一の言葉  午前5時10分。NBCラジオ佐賀の番組に石川慶蔵(伊万里有田法人会の理事)が耳 を傾ける。ラジオライブラリー『新・人間革命』が始まる。  31年間、経営の神様・松下幸之助の企業理念をPHP研究所で実践してきた。退職後、 妻の郷里である佐賀へ。不況の焼き物の町・有田を何とかしたい。しかし過労で倒れた。  「人間は、苦境に負けるのではない。自分自身に負ける」  ラジオの原作にある山本伸一の言葉である。そうだ、病院でもできることがある。メモ とペンを枕元におき、アイデアを練った。有田焼で、万華鏡や万年筆を作れないか。  異業種が協力して完成した商品は、洞爺湖サミットで名国の首脳に渡された。  松下の理念と共鳴する、名誉会長に今朝も学ぶ。     ◇  2006年11月8日、福岡県嘉麻市で「平和への大道展」が開かれた。  「創価学会。あの時も今も、若い人が元気だな」  筑豊の鉱業史研究の第一人者である深町純亮がつぶやいた。  1948年(昭和23年)、麻生鉱業に入社し、閉山まで労務を担当した。組合との交渉 窓口である。  カラスの鳴かぬ日はあっても、ヤマに赤旗の立たない日はなかった。  深町の見方。「炭坑マンは荒くれ者のようにいわれる。だが純朴な男たちは結局、政治に 利用された」  労使交渉のため新聞を読みあさったが、発刊間もない聖教新聞も面白かった。強い論陣 で、骨がある。戸田城聖という人物像も強烈だった。筑豊者が見ても魅力的である。  深町が展示会場の年表の前で足を止めた。名誉会長は66年(昭和41年)、筑豊を訪問 している。もう炭鉱が斜陽を迎えた時代に、足を運んでくれたのか。  年表で「夕張炭労事件」も知る。  「すごい。あの強力な夕張と戦うとは! 池田先生こそ、戸田会長の真のお弟子さんば い」  「一献歌(いっこんか)」の心  再び81年(昭和56年)、第1次宗門事件で嵐の九州。  12月15日、熊本文化会館で「一献歌」が紹介された。西南戦争で西郷隆盛のもとに 決起した中津隊が、別れの杯をかわす曲とされる。  名誉会長が、マイクを握った。  「あくまでも南無妙法蓮華経の大良薬を、君もあなたも、互いに飲もうという意義で歌 いたい」  「一献歌」の歌詞を一部、次のように書き改め、九州に贈っている。  「天あり 地あり 師匠あり」  「天」の時は来た!  「地」の信頼も広がった!  「師」との歴史を作るのは今だ! ????????? あの日あの時 3−7 池田先生と九州〔完〕