2008年10月26日付 聖教新聞 あの日あの時 3−8 池田先生と神戸 戦いは 勇気 気迫 勢いだ   裁判長の目  田中勇雄裁判長は、判事席から六っすぐ証言台を見すえた。  池田室長と視線が合う。  黒い法服を着た裁判長は表情こそ変えないものの、感じ取るものがあった。  目が輝いている。礼儀正しい。他の人と違う。  1957年(昭和32年)10月18、「大阪事件」の第1回公判である。  廷内も整然としている。  事件の中心人物が出廷すると、平気で法廷が荒れる時世だった。  しかし学会員がてきぱきと整理してくれ、秩序正しく審理が進んだ。学会への先入観を もたずに入廷したが、池田室長への第一印象は強烈だった。  検察が起訴した刑事事件は99パーセント以上の有罪率である。  しかし、予断を排さなければならない。これから始まる長い公判において、何が真実か を見極めようと肝に銘じた。      ◇  午後2時から始まった公判が終わると、池田室長は大阪地裁の前で車に乗り込んだ。こ の夜、向かったのは神戸市の東灘区である。  御影公会堂で神戸の会員が待っていた。ほとんどが室長と初対面である。法廷闘争が始 まったことを誰も知らない。室長はいつもとわらず、参加者に声をかけた。  「何でもけっこうです。質問のある方!」  青年が手をあげた。  「妻を亡くしました。どういう意味があるんでしょうか......」  会場には、咳払いひとつない。  「気の毒だ。しかし、死魔に負けてはいけない!この仏法は『幸せになる戦い』なんで す。必ず幸せになれるんです」  客席にいた飯田次子。空襲で家を失い、三宮の闇市「ブラックマーケット」で暮らして いた。  「幸せになる戦い」という言葉が、いつまでも耳から離れない。  裁判、それも刑事被告人の立場ともなれば、我が身の無事しか考えられまい。それが人 間だ。しかし室長の脳裏には、悩める庶民を救うことしかなかった。  この日の日記。  「生涯、忘れ得ぬ日。遂に戦いは始まったのだ。友よ、次の勝利に、断固進もう」  友よ──。  4年3カ月におよぶ法廷闘争。そこで、まっさきに室長が勝利を呼びかけたのは神戸の 友であった。  62年(昭和37年)1月24日。大阪事件の無罪判決の前夜、池田会長が「不幸な人 の味方に」と叫んだのも、兵庫の尼崎である。  神戸丸の船出  神戸は、インテリと庶民が同居している街だと言われる。  兵庫支部の初代支部長になる羽田野良二は、海技大学校の教授だった。  一等機関士。山の手の住民の代表格である。正直なところ、学会員は泥臭すぎる。つい ていけない。入会当初は、そう思った。  神戸の下町では、こんな座談会もあった。  長田区の会場。十畳間に人がひしめき合っている。  ドロドロの作業着。時代遅れのモンペ。タンスに寄りかかって、ゼェーゼェーと息を吐 く人までいる。スーツ姿の紳士など珍しい。  それでも「うちらは、本物の幸せを求めてるんや。お金やない。貧乏もなあ、幸せにな るための仮の姿なんや」と笑っている。  妻の静代に連れられ、神戸滞在中の池田総務を妨ねたのは58年(昭和33年)の9月 だった。  一目見て驚いた。この貫禄は何だ。13歳も年下には見えない気迫だった。  「何でも言ってください。夫婦間の悩みはありませんか」  「よく主人とケンカします」。待ってましたとばかりに静代が返す。  おい、人前で何を言い出すんだ。  プライドの高い羽田野は思わず顔を赤らめた。  「ご主人は一等機関士。少しの狂いでも、航路は外れてしまうもの。日常の生活でも、 きちっとしてないと気がすまないんでしょう。とにかく仲良く! さあ、私の前で握手し てくださいよ」  手を握らせた。羽田野が頭をかいた。インテリぶっていた自分が恥ずかしい。  貧しい姿を隠さず、何があってもへこたれない下町の会員の方が、よっぽど立派じゃな いか。  自分の穀がひとつ破れた気がした。  総務は、冷たい能面をかぶったような幹部に特に厳しい。気取りや傲慢を許さない。  インテリも庶民も同じ舶に乗って初めて、神戸丸は船出できる。このことを教えたので ある。   勇気と大志  井上員江は、神戸の草分けのひとりである。  52年(昭和27年)に入会し、「大阪の戦い」「山口闘争」にも身を投じた。  しかし、いつも大阪勢の勢いに圧倒された。  神戸人ならではの上品さが、どうも裏目に出るのか、いま一歩、折伏に踏み込めない。  58年(昭和33年)9月、玄関で人の声がする。茶の間から振り返って、驚きのあま り、茶碗を引っくり返してしまった。  池田総務が立っている。  勤行を終えると「何か書く物はありますか」。  差し出された扇子にさっと筆を滑らせた──。  「勇気」。顔を上げ、じっと目を見つめる。  「そして、大志だよ」  この一言で勢いがつく。折伏が次々と実る。夫婦で本紙の愛読をお願いすると、兵庫区・ 新開地界隈の店々が読んでくれた。  外部の購読者は学会世帯の2倍までふくらんだ。  59年(昭和34年)、灘区の麻袋製造会社で弘教の渦が巻き起こった。10人1部屋の 女子寮で続々と折伏が実っていく。  次々に異動が言い渡される。明らかな嫌がらせ人事だった。  彼女たち十数人は、関西本部に指導を求めた。通された部屋で状況を事細かく聞いてく れたのは、来阪中の池田総務だった。  「今、みんなが受けているのは、小雨のようなものだよ。小雨に滞れても、すぐに乾く。 大丈夫だ。今、しっかりと福運をつけることだ。そして将来、必ず、一人残らず、幸せに なってもらいたい」  彼女たちの顔に自信が戻る。  信教の自由は守られなければならない。総務は、ただちに厳重抗議の手を打ち、事態を 打開した。  九千人の撮影会  神戸で大規模な記念撮影会が開かれたのは、66年(昭和41年)の9月3日である。  大倉山公園に集合し、長い列が神戸市立中央体育館に伸びる。  正午前、池田会長が入場。撮影の合間に真剣な声があがった。  「先生、女子部の『闘争歌』を歌わせてください」  女子部の班長・樽井ヒロ子。福岡から、あこがれの神戸へきた。  だが樽井が住む兵庫区(現・北区)は広大な農村地帯。想像していたような、しやれた 港町とは、まったく違う。  それでも市街地に負けない素晴らしい地域にしたい。そんな願いを込めた愛唱歌である。  「じゃあ、君が指揮を執りなさい」 ♪霧たちこもる 六甲(むこ)の峰  兵庫の戦 意気高し......  「いい歌だ」。何度もうなずいて聴いてくれた。  「この気迫を忘れずに進むんだよ」  男子部のグループ。深く帽子をかぶった青年がいた。会長は即座に事情を察した。  「それを脱いで撮影しようよ。皆に見せて堂々と宿命転換するんだ」  帽子を取ると、病気のため頭髪がなかった。会長の眼差しは深く、温かい。自分らしく、 晴れ晴れと生きることを気づかせた。  一つの撮影台で200人ずつ。4台をフル稼働し、10回以上も入れ替えた。  1グループごとにマイクを握り、励ます。  マイク係の豊村敏治。手がすべらないようマイクにハンカチを巻く。すぐに汗でびしょ 濡れになった。  9000人以上が参加した撮影会。最後に役員とカメラに納まった時、すでに時計の針 は午後6時を回っていた。  湊川の大楠公  長田文化会相の3階で、朝から8人の婦人部員が唱題を続けていた。2000年2月2 9日である。  名誉会長が神戸市に滞在している。その諸行事の成功を連日、祈っていた。  8人は、それぞれ神戸の広布史と重なり合う人生を歩んできた。  大阪事件の第1回公判直後、あの御影公会堂にいた人もいる。  扇子に「勇気」と揮毫した場面にも居合わせた。  9000人の記念撮影会でも、深い決意を胸にとどめた。  好きな歌は"大楠公"。市内の湊川は、楠木正成ゆかりの地である。  長田文化会館から600メートルほどしか離れていない。  阪神大震災では、家や近しい人を失ったが、神戸の復興、なによりも人々の心の復興を 願って、立ち上がってきた。  「池田先生がこられます。こちらへ」。午後3時を過ぎて、突然、広間に案内された。  皆、信じられない。唱題しやすいように、ゆるいゴムのズボンをはいている。何も飾ら ず、下町を走り回ってきた、ありのままの姿である。  名誉会長が快活に入ってきた。  「そのまま、そのまま」。家族の気さくさだ。まっすぐピアノに向かう。  「湊川は、どっちかな」  神戸の友が一番好きな父子の歌──"大楠公"を弾くため鍵盤に指をかけた。 ????????? あの日あの時 3−8 池田先生と神戸〔完〕