2008年11月4日付 聖教新聞 あの日あの時 3−9=完 池田先生と東京・足立 戦いは「これから」だ!!   月光合唱団  フランス・パリの中心街。  シャンゼリゼ通りを走るバスが凱旋門に近づくと、車内の女性たちの顔が引き締まった。  1992年(平成4年)10月。東京・足立婦人部の「月光合唱団」である。  ♪街を歩く 心軽く......。  「オー・シャンゼリゼ」の歌声がバスから起こった。  発端は、88年(昭和63年)6月に足立文化講堂で行われた支部長会だった。「月光合 唱団」が朗らかに「オー・シャンゼリゼ」を歌い上げると、名誉会長が心から讃えた。  「うまい! どうせ歌うなら、パリの凱旋門で歌ってはどうか」  夢のような目標だった。足立区のコンクールで区長賞を取ったことはあるが、平凡な下 町の主婦である。  練習で技術を磨きながら、祈り続けた。なぜ凱旋門なのか。そこに行けば答えが見つか るかもしれない。  それから4年。ヨーロッパでSGI(創価学会インタナショナル)の音楽祭が開かれる ことになった。ドイツとフランスをめぐる交流団に「月光合唱団」が選ばれた。  一行は白亜の凱旋門を仰いだ。壁面に巨大な彫刻がほどこされている。  1792年、祖国の危機を救うため、マルセイユからパリヘ出陣した義勇兵をかたどっ たレリーフ。「ラ・マルセイエーズ」を歌いながら、やむにやまれぬ思いで立ち上がった。 その正義の軍勢を女神が鼓舞している。  ああ、これが足立の使命だ!  池田先生は、この精神を教えてくださったのか......。  創価の凱旋のため! 歌声も高く、どんな戦いであろうとも前進することを誓った。  歴史を動かせ!  「足立は学会の発祥の地。戦後も手作りで育ててきた。全学会をリードする使命と伝統 がある。足立の勝利が全国の勝利」  名誉会長は述懐している。  足立支部の歴史は古い。「城南の蒲田、城北の足立」と謳われた。  その昔、バラックや長屋が集まり、町工場が賑わい、田畑と沼地が広がる地域であった。  草創期。ある女性は履物を買う余裕すらなかった。新巻鮭の皮でつくった草履で座談会 場へ。ところが帰りぎわ、玄関に見当たらない。なんと描に食べられてしまっていた......。  理屈や建前など抜きにして、本気でぶつかれば、ストレートに反応してくれる。そんな 庶民性を戸田会長も愛した。  ある日の座談会。新来者の男が長々と観音経を、そらんじはじめた。「大罰を受けるぞ!」。 戸田会長が一喝した。裸電球の下で真剣勝負の対話になった。  「戸田先生、あんたが好きになった」  「おお、わしも好きだ」  破顔一笑。観音経の男は入会した。      ◇  55年(昭和30年)、初の地方選挙。戸田会長は荒川の河川敷に立って、民衆のための 政治家を育てようと訴えている。  同年3月には池田室長も初めて足立へ。北区の王子駅から江北橋を渡るコースだった。 江北地域にある初代足立支部長・藤田建吉宅で座談会に出席した。  4月には2軒の家庭訪問。「これからは兄弟として一緒に頑張ろう」。ぽんと肩を叩き励 ました。  57年(昭和32年)3月には蒲田支部をおさえ、足立が初の折伏日本一に輝いた。      ◇  行動力は、ずば抜けていた。  勇んで県境を越え、関東はもちろん、北海道から九州まで弘教の旗をひるがえす。足立 支部に「鹿児島地区」や「小樽班」まで誕生した。  夕張炭労事件の57年6月。足立の栗原道夫は自ら志願して北海道へ。  元来、体が強くない。真っ青な顔の栗原を案じて「大丈夫か」と声をかけたのは池田室 長だった。  「21歳です」と語ると、思いもよらぬ話をしてくれた。野口英世。豊臣秀吉。ナポレ オン。いずれも21歳当時に、どんな青春期だったか教えてもらった。  「歴史をつくった人だって妙法は持っていなかった。努力だけでやったんだ。君には信 心がある。勝てないはずはない。歴史は動かせる!」   栄光会の涙  陰の労苦を惜しまない足立。  折々に名誉会長が光をあてている。  71年(昭和46年)12月18日。  足立で記念撮影会があったが名誉会長は納得しなかった。  「この1回だけでは陰で動いてくれている方と写真を撮れない。裏方の皆さんのために、 もう一度やろう。足立は、こういう方々を大事にしていくんだ」  約束は一カ月もおかず、年明け早々の1月8日に果たされた。全国でも稀な2カ月連続 の撮影会になった。      ◇  83年(昭和58年)10月17、18日。  2日連続で、学会本部にいた青年部の運営役員と記念のカメラに納まった。  まず牙城会。翌日に創価班。不思議なことに、その両方に足立のメンバーがいた。  87年(昭和62年)9月13日。前日まで足立青年平和文化祭でにぎわっていた創価 大学のキャンパスも、人影が少ない。  しかし、中央体育館の前で黙々と働く男たちがいた。足立の栄光会(設営グループ)で ある。  決して表舞台には出ない。この1週間もフル回転で出動。本番中も裏で控えていた。  名誉会長がキッシンジャー博士を招き、足立の青年と一緒に舞ってくれた。大成功に終 わった。それだけで十分である。  撤退作業のため現場に泊まり込んで朝を迎えた時、役員がバナナの差し入れを届けに来 た。  みな寝不足で少々、気が立っている。  「おう、わかった。だけど、みんな早く帰りてえんだ。ゆっくり食ってる暇は、ねえな あ!」  役員が一言そえた。  「これは池田先生からです」  顔が真っ赤になった。  「あちらにいらっしゃいます」と校舎を指さす。  教室棟の高い窓から手を振っている人がいる。名誉会長だった。バナナを手にしたまま、 ぼうぜんとした。  昼になった。役員が走ってきて「すぐ集まってください」。  正面ロータリーの車に向かう名誉会長が、くるりと方向を変えた。栄光会に近づいてく る。  「ああ、先生だ!」  あわててドロドロの作業服のホコリを払い、頭に巻いていたタオルを取った。  「休日なのに、申し訳ありません」  深々と腰を折り、最敬礼してくれた。  「お客様が待っていますので、学会本部に戻ります。どうか奥さんに、よろしくお伝え ください」、  車へ戻る途中も次々と指示を出している。子どもがいる人にと、玩具が運ばれてきた。  女房、子どものことまで心配していただいて......。  ほどなくして、うな重が届く。屈強な男たちは目を赤くしながら食べていた。   避雷針になる  足立の田中光義が肩を落としたのは、79年(昭和54年)4月である。  念願の本部幹部会を足立で開催できるはずだったが、突然の会長辞任。目の前が真っ暗 になった。  足立にお迎えできないというなら、私たちから師匠のもとに集わせていただきたい。創 価大学での総会を企画し、出席を願い続けた。  神奈川。立川。長野......。名誉会長の執務先を追いかけた。路上で待ったこともある。  「今は大きな会合に出られない。そんなことできるわけない」と幹部。「足立の願いです」 と譲らない。  そんな熱意を誰よりも知っていたのは、名誉会長だった。  ある時、伝言が届いた。「今月は来なかったのかな」  その月だけ行けなかった。  遠慮なく、私にぶつかってきなさい──。  田中は思った。戦いに中途半端などない。師匠は全部お見通しなのだと。       ◇  81年(昭和56年)10月25日、創価大学グラウンドでの足立区友好総会。名誉会 長の出席予定がないまま、この日を迎えた。  役員を含め、総勢2万人が東京の東の端から西へ大移動した。マスゲーム。ダンス。演 目が順調に進んでいく。  運営を指揮する田中が、ふとスタンドを見上げた。  おや? 中央の席に白い帽子が見える。  池田先生だ!  大学の校舎から演技を見て、そっとスタンドの席に着いてくれたのである。  場内がざわつく。まさか......。入場のアナウンスもなかった。しかし、さざ波が次第 に大きくなる。やがてグラウンドに大歓声のうねりが起きた。  多くの人にとって名誉会長と初めての出会いだった。しかも会長辞任後、これはど大勢 の一般会員の前に姿を現したことはない。  「創価学会の信念とは」  最後にマイクを握ってあいさつした。  「代々の会長が犠牲になっても、会員は絶対に犠牲にしないことである」  「私は何があっても富土山の如く不動です。皆さんの避雷針として難を受けている。そ れを祈ってきたんだ」  烈々たる師子吼がほとばしる。犠牲。避雷針。難。この数年の嵐の激しさを物語る言々 句々だった。  「弱兵を先んずれば強敵倍力を得る」──「ここ一番」の戦では、最強の兵が先陣に立 て! 日蓮大聖人の厳命であられる。  反転攻勢の火蓋は、王者・足立から切っておとされた。  戦いは「これから」だ! ??????? あの日あの時 3−9=完 池田先生と東京・足立〔完〕