2009年1月14日付 聖教新聞 池田大作──その行動と軌跡 第7回 第2代会長 4 市ヶ谷の分室で 恩師は面接指導した 一対一の対話があるから学会は強い 第二代会長が誕生  昭和二十六年(一九五一年)五月三日。この快晴の木曜日、戸田城聖は創価学会第二代 会長に就任した。  組織も一新され、新進気鋭の人材が登用された。  しかし、池田大作青年には師の事業を軌道にのせる責務がある。  大将軍を先頭に進撃が始まったものの、兵站(へいたん)を考える者は誰もいない。その ため、最末端の役職にとどまる。  苦境の戸田城聖を支え、復活への血路を開き、矢島周平の野望を砕き、第二代会長に就 かせたのは、池田青年にほかならない。  その存在なくして「戸田会長の誕生」はなかった。にもかかわらず、会長就任後の役職 は、わずかに男子部班長にすぎない。  事情を知らない青年部幹部のなかには、ふだん活動に姿を見せないことをあげつらい、 批判する者までいた。  もとより覚悟である。男子部の後輩に語っている。  「私は釈迦の弟子の中で、密行第一といわれた羅?羅(らごら)一番好きだ。私は、それ で通すんだ」  羅?羅とは、釈迦十大弟子の一人である。  厳しく戒律を遵守し、みずから表に出ることばない。陰で黙々と働き、教団を支えた弟 子である。  その後の矢島周平である。  第二代会長が誕生した昭和二十六年五月に、矢島は理事長を更迭され、指導監査部長に 転じた。さらに九月には、自ら申し出て、この役職も辞している。  この手の男には、あまり追跡リポートがないものだが、翌二十七年四月の聖教新聞に消 息が掲載された。  「指導方針が真実の大聖人様の教からはずれたため、大きな錯誤を学会員の指導及び自 己の生活に暴露した」  幾多の証言と一致する。「教えからはずれた」何かがあったようである。  昭和二十八年六月の続報。  「会長推戴の前後より事業に失敗し、以後しばらく学会より離れていたが、昨年一度再 起せんとして果さず」  事業に失敗し、そのまま立ち直れなかった。その後、戸田会長の情けで出家し、学会が 寄進した寺におさまるが、反省の色は見えなかった。  戦前は自分を拾ってくれた牧口会長を捨て、戦後は戸田会長を裏切った。やはり一度、 裏切った男は何回でも繰り返すものと言えようか。  戸田会長の事業も新しい段階を迎えた。  会長に就任して間もない五月末、百人町から市ヶ谷の貸しビルの二階に移った。  お堀端。市ヶ谷駅から橋を渡って、ほぼ向かい側。打ち放しコンクリート三階建てであ る。百人町の事務所に比べ、格段の違いがある。  戸田会長は市ヶ谷ビル内のレストランで、よく昼食を取った。エビをソースで和え、穀 にのせたコキールが好物だったようだ。シェフの夫婦とも親しくなった。  西神田の事務所で行っていた会長の個人指導も、この市ヶ谷ビルに舞台を移す。  学会本部の分室と聖教新聞の編集室も置かれた。  分室は四、五坪ほどの小さな部屋だった。窓際に大きめのデスクがあり、その机上に一 輪差しとインク立てが置かれている。  ここで会長は缶入り「ピース」から一本を取り出し、うまそうに吸った。  缶に入っている円形の紙を取っておき、折々に詠んだ歌を記して会員に贈ることもあっ た。  「信頼を売る」  分室で会長の指導を求める会員は、デスクの前の丸椅子に座る。部屋の両脇に置かれた 長椅子にも、みっちり人が腰を下ろしている。  コンクリートづくりで、冬場は足もとから、しんしんと冷える。練炭火鉢がたかれた。 せまい廊下にまで行列ができた。  戸田会長は、時には机に身を乗り出し、時には、たった一言で突き放すこともある。  森田秀子には印象的な師の一言がある。  「面接というのは、すごく疲れる。濁流の中で、たったひとり一本の旗を持って立って いるみたいだ。ちょっとでも心がゆるむと、その旗ごと倒されそうだよ」  この一対一の対話が学会の伝統になる。  個人指導は午後二時から四時過ぎまでだが、遅くなる日もあった。最後の一人を見送る と、別室のひじ掛け椅子で休んだ。  それ以外の時間は、執筆にあてることが多い。極度の近眼のため、字を書くのは辛労が 大きい。  タバコをくゆらせたり、仁丹をかみながら口述する。秘書の書きとめる内容が、そのま ま「大白蓮華」の巻頭言や聖教新聞の記事になった。  池田青年も、市ヶ谷に出勤した。  昭和二十七年(一九五二年)一月に入社した吉田顕之助。先輩の池田青年に仕事を教わ った。  大井町駅のすぐ近くで炭屋を営む壮年に、出資を願いに行った日のことである。  堂々と大股で歩く先輩の背中が頼もしい。営業の現場を見て、驚いた。  壮年と会い、礼儀正しく挨拶すると「景気は、どうですか」。  世間話から始める。お互いの身の上を語り、会話が弾むが、いっこうに商談は出てこな い。想像とはまったく違うではないか。  吉田が気をもみはじめたころ、壮年がキッパリした口調で告げた。  「分かりました。出資させていただきましょう」  それだけではない。壮年は後日、出資者になりそうな知己まで紹介してくれた。  その後も、池田青年に従って現場を踏んだが、どこに行っても同じだった。  仕事の話は一言もしない。だが最後は決まって、相手から申し出てくれた。  不思議でならない。だが、やがて気づいた。まず自分を信頼させる。そして、師を信頼 させているのだ。  みな、池田青年という人物を人間として信用して、協力している。  「営業とは自分という人間を売ること。信頼を売ることなのか」  このころから、業績は次第に好転していく。職場の陣容にも、ようやく余裕が生まれ、 戸田会長の財政事情も、かなり盤石となった。  「機は熱したか......」  重大な決断を下した。  「大作を出してもいいころだな」  戸田会長は池田青年を組織の第一線に出す。  戸田会長と過ごした「池田青年の十年」。事業の打開とともに、そのもう一つの核をなす のが、苦闘期の昭和二十五年から行われた一対一の個人教授である。  戸田大学とも呼ばれる。  そこで何が語られていたのか、速記の資料等は残されていない。  ただ、この戸田大学は、その後、二つの発展形態をたどっていくため、そこから類推す ることは不可能ではない。  一つは大学の教養課程レベルの講義である。やや学問的な色彩が強い。  もう一つは古今の文学作品を教材にした指導である。学会の運動論と深く結びつく。  前者は、市ヶ谷の事務所で早朝に行われたことから「早朝講義」と呼ばれた。  これには社員たちも同席が許された。  後者は、事業がもっとも苦境にあった時、池田青年をはじめ代表十四人に語った講義で ある。『永遠の都』などが教材で、戸田会長の就任後に終了する。  古今の文学作品は、戸田会長の心のフィルターを通すと、実に示唆に富む青年育成のテ キストになった。  その後、池田青年の申し出により、青年部員を選抜しての指導会が行われることになっ た。  それが「水餅会」である。         (続く) 時代と背景  恩師の事業が軌道に乗り、組織の第一線に躍り出た。蒲田では月201世帯の弘教を指 揮し、当時の限界を破った。(小岩・向島・城東を擁する第一部隊長として青年勢力を倍増。 最下位クラスに低迷していた文京支部もA級支部に押し上げた。  背に焼けた鉄板を入れたような疲労が続く。「だが、私は、自己との妥協はできない情勢 になつていた」(池田大作著『私の履歴書』) 池田大作──その行動と軌跡 第7回 第2代会長 4