2009年1月26日 聖教新聞 第34回「SGIの日」記念提言 上−1 『人道的競争へ 新たな潮流』 現代文明の混迷広げる「抽象化の精神」の罠から脱し──  試練に立ち向かう人間の凱歌を!!  きょう26日の第34回「SGI(創価学会インタナショナル)の日」に寄せて、池田 SGI会長は「人道的競争へ新たな潮流」と題する提言を発表した。提言ではまず、現在 のグローバルな金融危機を招いた背景にある拝金主義の問題に言及。貨幣に対する際限の ない欲望が人間不在の病理を広げる様相は、哲学者マルセルが警鐘した「抽象化の精神」 の罠にからめとられた姿にほかならないと強調した上で、資本主義が直面する課題を乗り 越えるためには、創価学会の牧口初代会長が100年前に打ち出していた「人道的競争」 の理念と、身近な足場から「内在的普遍」の地平を拓くアプローチを踏まえつつ、パラダ イム・シフトを図る必要があると訴えている。続いて、「人道的競争」に基づいて国際社会 が対処すべき課題として、地球温暖化や食糧危機の問題などを取り上げ、「国際持続可能エ ネルギー機関」や「世界食糧銀行」の創設を提案するとともに、人道基金の拡充を図り、" 地球社会のセーフティーネット"を整備する重要性を強調。また核軍縮の分野については、 「米ロ首脳会談」の早期開催と、「核兵器禁止条約」の交渉開始を呼びかけている。最後に、 21世紀の国運を展望し、"民衆の顔をした国連"に向けて市民社会担当の事務次長の設置 と、未来志向に立って人類の進むべき方向性を探る「グローバル・ビジョン局」の新設を 提唱している。  (下は次号に掲戟予定)  アメリカのサブプライムローン(低信用者向け高利の住宅ローン)の焦げ付き、リーマ ン・ブラザーズの経営破綻などに端を発する、昨年秋のアメリカ発金融危機は、「100年 に1度」といわれる衝撃をもってグローバル社会を襲いました。それは、経済恐慌から世 界大戦へと転落の道を歩んでしまった1930年代の悪夢を想起せざるをえない。暗夜を 手探りで進むような状態が続いていますが、金融危機は、世界的な景気の後退、雇用情勢 の悪化など容赦なく実体経済の足元を脅かしており、80年前の大恐慌が、金融危機から 1、2年を経過して、本格的なパニック(混乱)に陥ったことを考えると、事態の推移は まったく予断を許しません。  人間は、平和に人間らしく暮らす権利を持っております。大多数の人は、そのために孜々 として怠らずに、日々の営みを続けており、その生活基盤が、予想だにせぬ、しかもほと んど関知しない次元からの「津波」のような衝撃によって翻弄される事態などあってはな らない。  事態をこれ以上悪化させないためにも、各国は、より一層緊密に連携をとりながら、財 政、金融等あらゆる面で、衆知を結集し、後手にならぬよう、全力で取り組んでいってほ しいと思います。  「貨幣」に対する際限のない欲望  今回の破綻の最大の原因は、いうまでもなく、一説には世界のGDP(国内総生産)の 4倍にものぽるとされる金融資産の跳梁跋扈にあります。「暴走する資本主義」「強欲資本 主義」等の言葉が飛び交っているように、本来、経済活動を円滑化するための"脇役"であ るべき金融が、"主役"の座を占拠し、それがどのような余波をもたらすかなど我関せず、 ひたすら利益、儲けのみを追い続ける人々が、時代の寵児のごとくもてはやされてきまし た。  その根底には、この提言で何度も警告してきたように、「貨幣愛」にとりつかれたグロー バル・マモニズム(拝金主義)ともいうべき文明病が横たわっております。イデオロギー 崩壊後の世界の潮流は、ポスト冷戦への人々のほのかな期待をあざ笑うかのようにマンモ ン(富の神)の宰領する世界になってしまったといっても過言ではない。  グローバルな市場経済を差配する「貨幣」とは、紙か金属片(最近では電子情報)にす ぎず、周知のように使用価値は、皆無に近い。有するのは、交換価値のみです。交換価値 とは、人間同士の約束事として成り立っているもので、本質的に抽象的、非人称的な存在 といってよい。それは、財やサービスのように具体的な、それゆえに限定的な対象物をも たず、際限のない広がりをもつ。欲望の対象として限界がない。そこに「貨幣愛」という ものの特徴というか宿命的な病理があります。 金融危機の根にひそむ拝金主義  哲学者マルセルが警告していたもの  金融市場のみならず市場経済全体を貫く「効率性と不安定性との根源的な『二律背反』」 (岩井克人二十一世紀の資本主義論』筑摩書房)が指摘される所以でしょう。利潤をあげ るための限りなき効率性の追求と、実体の裏付けを欠く貨幣というものの不安定性──そ れは、「個人」の自由な経済活動を基調にした市場経済が発達した現代の宿命といえるかも しれません。  ところで、哲学者のガブリエル・マルセルが、第2次世界大戦を顧みながら、「抽象化の 精神──戦争の要因たるもの」という興味深い論点を提起していたのを記憶しています(以 下、小鳥威彦訳『マルセル著作集6』春秋社)。  いうまでもなく抽象作業そのものは、人間の知的な営みに欠かせないものです。早い話、 「人間」などというものは存在しない。実質は、日本人やアメリカ人であり、男や女であ り、青年や壮年であり、何々県人でありと細分化していくと、つまるところ、十人十色一 人として同じ人間はいません。それが具体性の世界の実像です。それをきちんと踏まえた 上で「人間」を論じないと抽象概念が独り歩きしてしまう。  マルセルいうところの「抽象化の精神」とは、その具体性から乖離した悪しき独り歩き の謂であります。人間は、例えば戦争に参加するとなると、個々人の具体的な人格的特性 をすべて捨象し、敵を抽象的な概念──ファシスト、コミュニスト、シオニスト、イスラ ム過激派、等々──で括ろうとする。マルセルが分析するように、「これらの存在者を絶滅 する用意をせねばならなくなるその瞬間から、まったく必然的に私は、亡ぼさねばならな いかもしれないその存在者の個人的実在についての意識を失ってしまう。かかる人格的存 在を蜉蝣のごとき姿に変えるためには、是非ともその存在を抽象概念に変換してしまうこ とが必要」だからです。そうでなければ、戦争参加を意義づけ、正当化することはできな いからです。  一番の問題は、そうした「抽象化の精神」は、ニュートラル(中立的)で没価値的な境 位に止まっていず、「価値貶下的な帰納」(意訳すれば、価値を定めるための決めつけ)を 引き起こす「情念的側面」、怨念(ルサンチマン)を随伴している点にあります。  すなわち、抽象的概念で括ったとたん、それらは無価値なもの、低級なもの、有害なも のとして、駆除されるべき対象の位置まで貶められてしまう。人格的存在としての「人間」 は不在となる。「抽象化の精神は情念的な本質をもっているものであり、逆にいえば、情念 が抽象物を捏造する」と述べるマルセルは、故に自分の哲学上の全仕事は「抽象化の精神 に対する休みなき執拗な闘い」と位置づけている。この指摘は、今なお、光を失っていな いと思います。 経済至上主義がもたらした社会の閉塞感 暴力と惨劇の轍を踏まない解決を  人間の正視眼が見失われた社会  現今の金融危機、経済危機の経緯に目をやる時、時流は、ある種の「抽象化の精神」に からめとられてはいないでしょうか。「貨幣」の抽象性、非人称世界に住するメドゥサ=注 1=の魔力の餌食となって、それを、人間社会に不可欠なものではあっても、あくまで約 束事、バーチャル・リアリティー(仮想現実)にすぎないと看破する、「人間」としての正 視眼を失い、貨幣への「崇拝」あるいは「呪詛」といった「情念」に目をくらまされては いないでしょうか。  拝金主義とは、いうまでもなく「崇拝」の産物であり、「貨幣」という物的欲望を超える 欲望の虜になって、会社に例をとれば、その社会への貢献といった"公"の側面など無視し て、短期的な利益にしか関心のない株主の"私的"意向が最優先され、経営者、従業員、顧 客・消費者などへと広がる具体的な人間の繋がりといった人称世界の具体的な事どもは、 二の次、三の次として、捨象されてしまう。──不本意ながらもそういう嫌な役回りを演 じざるをえなかった、という良心的経営者の嘆きの声が、世界の各地から聞こえてきます。  「全体人間」であって初めて、真に人間たりうるという人間の条件を忘失し、「抽象化の 精神」の化身ともいうペき、貨幣的価値しか念頭にない「経済人」(ホモ・エコノミクス) へと、それとしらず身を定めてしまっている──金融主導のグローバリゼーションは、そ の種の人々を、おびただしく輩出してきました。  グローバリズムと反比例するかのような人々の閉塞感は、"利"に目が眩み、「私は、私と 私の環境である」(A・マタイス/佐々木孝訳『ドン・キホーテに関する思索』現代思潮社) というオルテガ。イ。ガセットの不朽のテーゼなど我関せず、自然環境や文化環境(由緒 ある町並みや地域コミュニティーなど)を破壊しておいて、なおかつ人間社会が存続し得 るかのような錯覚に陥っている傲慢なエゴイズムの、自ら招き寄せた末路とはいえないで しょうか。  もとより「経済人」といっても特定の人間を指すのではない。資本主義そのものに内蔵 されているベクトル(力の方向性)の所産であって、株主は当然のこと経営者や従業員、 顧客・消費者といえども、資本主義が純化されてくればくるほど、そのベクトルに従わざ るをえなくなる。従わなければ、少なくとも短期的には損をする。  資本主義の暴走が招いた社会の混迷  『勝者の代償』以来、ニュー・エコノミー(現代資本主義)の行き過ぎた動向に警鐘を 鳴らしてきたロバート・ラィシュ氏(クリントン政権時の労働長官) は、近著『暴走する資本主義』(原題は『超資本主義』。雨宮寛・今井章子訳、東洋経済新 報社)で、「全体人間」の帯びる多面的性格を、端的に「投資家」「消費者」の側面と「市 民」の側面との二つに要約し、「厄介なことに、私たちはほとんどみな二面性の持ち主なの だ。消費者や投資家としての私たちは有利な取引を望むが、市民としての私たちはその結 果もたらされる社会的悪影響を懸念する」と指摘しています。  肝心なことは、両者のバランスをどうとるか(全体人間たろうとするか)にあるが、「超 資本主義」の下では「消費者と投資家が権力を獲得し、市民が権力を失ってきた」と。  その結果もたらされたのが、資本主義の優位と民主主義の劣位であります。そこを席巻 する拝金主義という一元的価値観が、世界的に所得格差の拡大、雇用の不安定化、環境破 壊など、資本主義の負の側面を増進させてしまった。  それどころか、最近の金融危機、経済危機は、正の側面である富の拡大という面でも、 実体と乖離した胡散臭いものではないかという疑念を満天下にさらしてしまいました。 第34回「SGIの日」記念提言 上−2に続く 2009年1月26日 聖教新聞 第34回「SGIの日」記念提言 上−2  規制緩和や技術革新を追い風に順風満帆のように見えたグローバリゼーションも、今や 世界同時不況という台風並みの逆風にさらされています。自由競争に任せておけば、市場 は万事うまく運ぶといつた予定調和的な行き方の破綻は、誰の目にも明らかなのですから、 かつてない難局への対応は焦眉の急を告げています。  金融資本の目にあまる暴走には、ブレーキをかけねばならないし、企業実績の急激な落 ち込み、それに伴う雇用情勢の目を覆うばかりの悪化は、可能な限りでの大胆かつ迅速な 対応(財政、金融面での支援、セーフティーネットの整備など)が急務であることは論を 待ちません。  特に私どもが忘れてならないのは、今日の国際情勢を覆う貧困の問題です。それは、職 業という人間の根源的な営みを脅かし、生きる意味、目的、希望など、人間の尊厳、社会 の存亡に関わるものだけに、総力を挙げて取り組んでいかなければならない。今こそ、大 所高所に立った経綸の才が求められていることを、特に政治家は、自覚すべきであります。 グローバル資本主義という暴れ馬の手綱を引き締める役割は、何といっても「政治」や「国 家」に課されるところ大であるからです。  同時に、「国家」による統制、コントロールに期待する余り、万が一にもファシズムの台 頭を許した1930年代の轍を踏むようなことがあってはならない。その意味からも私は、 マルセルのいう「抽象化の精神」の警鐘に耳を傾ける必要があると思います。  「呼称」が先行し独り歩きする弊害  日本では、グローバリゼーションの「負」の現象として、「格差社会」や、「勝ち組」「負 け組」といった嫌な言葉が飛び交っています。  いうまでもなく、昨今のように生活が脅かされる人々が続出する事態は一刻も放置でき ず、何らかの対応が必要不可欠なること、繰り返すまでもありません。それと同時に留意 すべきは、これらの現象を十把一絡げに、抽象的な「呼称」で括ってしまうと、個々の努 力といった人間の具体的な事実の世界が見えにくくなってしまうということではないでし ょうか。  どんな境遇に置かれようと、社会状況が厳しくとも、外的条件にのみ依存するのではな く、気力を奮い起こして壁に立ち向かっていく多くの人たちの実像は、そうした「呼称」 からはほど遠い。  勝ち負けといっても、永遠に続くものではなく、またそれらの「呼称」が、経済至上主 義的な価値観から一歩も出るものではなく、全人格的価値を覆うに足らずと、勝って傲ら ず負けて挫けず、毀誉褒貶を眼下に見ながら、悠々と生きている人々を、有名無名を問わ ず、社会は数限りなく有しているはずであります。  十把一絡げな「呼称」があまりにも頻繁に使われると、そうした人間としての価値や尊 厳性、創意工夫をこらして苦難に立ち向かおうとする気概や勇気を矮小化し、それに水を 差す結果をもたらしかねないのではないでしょうか。  その結果、マルセルのいう「何か最後の審判の雛型みたいなものを見ようとする弱い精 神」(前掲『マルセル著作集6』)、人間性に背を向けた、他力本願的な暴力志向への誘い水 になってしまいはしないかということを恐れるのであります。  13年前、アメリカ経済が"我が世の春"を謳歌していた頃、『ニューズウィーク』誌(日 本版、96年2月21日号)は、「理想の社会はどこに」との特集の冒頭で、「うまくいっ ているのに、誰もが不満をもっている。それが私たちの時代のパラドックスだ」と書き起 こしていました。  専ら金銭的収入の多寡という物差しでしか、人間的価値の優劣を論ずるしかない経済至 上主義、拝金主義の地平には、原理的に"自足"はありえません。  常に何がしかの怨念──不満や羨望が渦巻き続け、それは、社会を停滞させる"嫉妬社会 "の温床であります。 貧困と雇用問題の対処は政治の責務  若者に贈られた文豪からの助言  昨年亡くなった友人で世界的文豪であったチンギス・アイトマートフ氏の言葉を想起し ます。  氏は「父親としての助言」として、「若者たちよ、社会革命に多くを期待してはいけませ ん。革命は暴動であり、集団的な病気であり、集団的な暴力であり、国民、民族、社会の 全般にわたる大惨事です。(中略)無血の進化の道を、社会を道理に照らして改革する道を 探し求めて下さい」(『大いなる魂の詩』、『池田大作全集第15巻』所収)と切々と語って いました。  マルセルが「弱い精神」からの決別を訴えたのは、ファシズムよりも共産主義(=ソビ エト型社会主義)への警戒を第一義としていました。  執筆時期が1951年(ファシズムは壊滅し、共産主義は声望を維持していた)である ことから当然ですが、彼が最も警戒したのは、「失うものは鉄鎖のみ」「収奪者が収奪され る」といった抽象的なスローガンが、あたかも歴史的必然であるかのように装い、怨念を かきたてて、革命という大義のもとに暴力、流血の惨事を招き寄せてしまうからです。  70年余にわたる社会主義の興亡の歴史は、彼の洞察の正しさを十二分に立証しており ます。  また、貨幣に象徴される拝金主義的な価値観への嫌悪、呪詛にもかかわらず、かつての 社会主義が、ついにそれを乗り越えることができなかったことは、歴史の重い教訓といえ るのではないでしょうか。  そろそろ、発想を転換し、文明論的なパラダイム・シフト(思考の枠組みの転換)を囲 っていかなければならない。  暴走する資本主義にブレーキをかけるために何より有効なのは、法的・制度的な統御で あることは前述しましたが、それらが、その場しのぎの弥縫策に終わるのではなく、長期 的なビジョンに繋げていくためには、パラダイム・シフトを避けて通ることはできないと 思うのであります。  80年前の大恐慌の頃は、資本主義に取って代わるものとして、曲がりなりにも社会主 義(共産主義であれ、国家社会主義であれ)というパラダイムがあった。  しかし、今は、それに代わるような理念、ビジョンは、提起されておりません。 人道に基盤を置く競争へのバラダイム転換が不可欠  「理念」に基づく「世界像」の探求を  ところで、サルコジ仏大統領のブレーンであるジャック・アタリ氏は、『21世紀の歴史』 (林昌宏訳、作品社)で端的に分析しています。いわく、「現状はいたってシンプルである。 つまり、市場の力が世界を覆っている。マネーの威力が強まったことは、個人主義が勝利 した究極の証であり、これは近代史における激変の核心部分でもある」と。  すなわち、グローバルな拝金主義とは、半面、あらゆるしがらみから自由になった個人 主義の勝利であり、「貨幣」の抽象的普遍性は、労働力商品としての「個人」の抽象的普遍 性とコインの表裏を成しているということでしょう。いうまでもなく、この個人主義をベ ースに、自由や人権等の普遍的理念も形成されてきたのであり、資本主義と近代民主主義 は、かなりの部分で重なっている。  今、資本主義や民主主義を内実とする近代社会のシステムが、抜き差しならぬ袋小路に あるとすれば、何としても、それに代わる普遍的な視座、往時のプロレタリア国際主義= 注2=の轍を踏むことのない新たな理念の地平を切り拓かねばならない。危機回避のため の差し迫った対応は当然のこととして、より巨視的な展望に立った、例えば、マックス・ ヴェーバーが、「人間の行為を直接に支配するものは、利害関心(物質的ならびに観念的な) であって、理念ではない。しかし、『理念』によってつくりだされた『世界像』は、きわめ てしばしば転轍手として軌道を決定し、そしてその軌道の上を利害のダイナミックスが人 間の行為を推し進めてきた」(大塚久雄・生松敬三訳『宗教社会学論選』みすず書房)と述 べたような時代精神が、今こそ構想されねばならないでしょう。善かれ悪しかれ、地球社 会のグローバル化は、そこまで進んでいるからです。  100年以上前の先見的な発想  そこで私が、資本主義の袋小路を抜け出すための発想の転換というか、新たなパラダイ ム・シフトへのヒントとして提唱したいのが、創価学会の牧口常三郎初代会長が、100 年余り前に32歳で世に問うた『人生地理学』で提起した「人道的競争」という概念であ ります。  牧口会長は、人類史を俯瞰しながら、生存競争は軍事的競争、政治的競争、経済的競争 をへて、これからは人道的競争を目指すべきだと訴えました。  もとよりそれらは、截然と区分けできるものではなく、例えば軍事的背景をもった経済 的競争もあれば、逆もまた真である、といったふうに、多くの場合、輻輳し重なりあいな がら、漸進的に変化を遂げてくる。その過程を丹念にかつ大胆にたどってみれば、紆余曲 折をへながらも、人類は凡そそのところ、その方向を目指しているし、そうあらねばなら ない。──こうして牧口会長は、超歴史的観点からではなく、学者らしく、歴史の内在的 発展の論理をたどりながら、「人道的競争」という帰結に至っているのであります。  その中身に目をやれば、短い記述のなかに、今なお新しいというよりも、時とともに輝 きを増す洞察がちりばめられております。  例えば、「武力若くは権力を以てしたると同様の事をなしたるを、無形の勢力を以て自然 に薫化するにあり。即ち威服の代わりに心服をなさしむるにあり」(『牧口常三郎全集第2 巻』第三文明社。現代表記に改めた)と。  このくだりなど 私の知友に引き寄せていえば、何度かお会いしたハーバード大学のジ ョセフ・ナイ教授の「ソフト・パワーとは何なのか。それは、強制や報酬ではなく、魅力 によって望む結果を得る能力である」(山岡洋一訳『ソフト・パワー』日本経済新聞社)と の指摘と、瓜二つではないでしょうか。  また、牧口会長の言葉に「要は其日的を利己主義にのみ置かずして、自己と共に他の生 活をも保護し、増進せしめんとするにあり。反言すれば他の為めにし、他を益しつつ自己 も益する方法」(前掲『牧口常三郎全集第2巻』)とあります。  これは、アメリカの未来学者ヘイゼル・ヘンダーソン博士の提唱する"Win−Win  World"(皆が勝者となる世界)と強く響き合っていないでしょうか。あらためて、若 き牧口会長の洞察に思いを致さざるをえないのであります。  残念ながら、その後の歴史は牧口会長の期待を裏切ってしまったが、100年の歳月を 閲した今こそ、「人道的競争」という先見的着想、ビジョンへと、パラダイム・シフトして いくべき"時"であると声を大にして訴えたいのであります。  なぜなら、指摘するまでもなく、資本主義のもたらす弊害を除去するために、社会主義 が標榜した「平等」「公正」等のスローガンは、国内的にも国際的にも、まさしく「人道」、 ヒユーマニズムに立脚した理念以外の何物でもないからであります。制度としての社会主 義の失敗ともども、それらをも葬り去ってよいものでは、決してない。そうであっては、 なぜ社会主義運動が、人々とくに若者たちの心をとらえ、一時は地球の3分の1までを席 巻するに至ったのかという、20世紀の貴重な教訓までも忘却の淵に沈めてしまいます。 第34回「SGIの日」記念提言 上−3に続く 2009年1月26日 聖教新聞 第34回「SGIの日」記念提言 上−3  正しい理念を標榜しながら」なぜ社会主義は蹉跌を余儀なくされたのか?  今さら論ずるまでもないことですが、本論に即して一言でいえば、牧口会長が「苟くも 天然、人為の事情によりて自由競争の阻礙せらるる所。是れ沈滞、不動、退化の生ずる所」 (同)と喝破した、人間社会の活力の源泉である「競争」的側面を、あまりにも蔑ろにし てしまったからだといってよい。階級をなくし外的条件さえ整えれば、人間らしい社会が 実現するかのごときバラ色の未来像に寄りかかりすぎました。  エゴイズムの赴くままの野放図な自由競争は、弱肉強食の社会ダーウィニズム(自然淘 汰主義)に陥りますが、適正な枠組みとルールに基づく競争は、人間と社会に活力をもた らします。それ故に、競争的側面を直視しつつ、むしろ人道という価値を基盤におく競争 に転換し、「人道」と「競争」の両方の価値を相乗的に顕現させようとする「人道的競争」 こそ、21世紀を拓きゆくパラダイムの先駆けたりうるものではないでしょうか。  訳知り顔で一挙に未来を語る傲慢さ  しかし、新たなパラダイムヘの模索のプロセスは、マルセルの警告するように、あくま で具体性に即してたどらなければならない。  一挙にそして訳知り顔に、人類史が目指すべきグランドデザインを提示しようなどとい う性急さ、思い上がりは、「抽象化の精神」の格好の餌食になってしまうにちがいない。そ の点は、ソ連邦興亡の歴史に照らして、ゴルバチョフ元ソ連大統領が「20世紀の精神の 教訓」として、警鐘を鳴らしていたところであります。  その点、歴史の生き証人として、ゴルバチョフ氏はさまざまな例証を挙げていましたが、 中から、世界的なオペラ歌手フョードル・シャリヤーピンの、いかにも芸術家らしい機知 に富んだ証言を紹介しておきます。  「不幸にも、われらがロシアの"建設者たち"は、ほどよい、いかにも人間的なプランに したがって、平凡な人間向きの建物を建てるところまで、自分を凡人化しようとはしなか った。どうしても、空中にそびえ立つ塔・バビロンの塔を造ろうとしたのです。彼らは、 ごく普通の調子の健康的な歩調で、人々が仕事に行き、また、仕事から家に帰ってくるよ うなことに満足できなかった。彼らは、すぐに"七マイル間隔"の歩幅で未来に突進しなけ ればならないと思ったのです。"古い世界に別れを告げよう"と思うや否や、すぐにでも、 古い世界を根こそぎ何も残らないように、一掃してしまわなければならない。何よりも驚 くべきは、われらがロシアの"賢人たち"が何でも知っているということなのです。彼らは、 ──(中略)──兎にマッチのつけ方を教えるにはどうすればいいかも知っている、その 兎が幸せであるためには、何が必要であるかも知っている、そして二百年後のこの兎の子 孫が幸せであるためには、何が必要であるかも知っている」(『二十世紀の精神の教訓』、『池 田大作全集第105巻』所収)と。  20世紀の歴史が物語る外在的な普遍の危うさ  やや長い引用になりましにが、「抽象化の精神」の虜になった人間が、いかに民衆の具体 的生活、生活実感からかけ離れたモンスターと化すかを、カリカチュアライズ(戯画化) しながら、活写しております。  「ほどよい、いかにも人間的なプラン......」「ごく普通の調子の健康的な歩調......」 とは、マルセルいうところの具体性と重なります。この具体性の世界から足を踏み外し、 「抽象化」に魅入られてしまうと、思わぬしっぺ返しを受けざるをえない。  人間社会を蝕む「隣人の否定」  アイトマートフ氏も私との対談で取り上げていた有名なエピソードですが、スターリン 時代、パヴリック・モロゾフという少年が、父親が富農(クラーク)と親密であることを、 当局に密告した。父親は犠牲になり、少年は、怒った親族の手で殺されるが、逆に当局か らは、社会主義少年英雄として銅像まで建てられ、宣揚された。──イデオロギーという 「抽象物」が、親子の情愛という「具体的」なモラルを飲み込んでしまった一例でありま す。  マルセルは、その一方でアメリカに代表される産業文明、機械文明の病理にも容赦しま せんでした。「まさしくテクノクラシーこそ、何よりも隣人の抽象化をなして、ついには隣 人を否定するところに成立つ」(前掲『マルセル著作集6』)と。  半世紀たった今日、テクノクラシーの延長上にある金融工学を駆使した金融商品で巨額 の利益を追い求める一握りの富者が、貨幣という「抽象物」の化身さながらに、膨大な貧 者に目もくれず巨万の富を独占している惨状が、マルセルの切っ先を逃れることができる でしょうか。「隣人の否定」の上にしか成り立たないような繁栄など長続きするはずがない し、また、させてはならない。  私は、まだソ連邦が存続していた20年前のこの提言で、普遍的な視座、理念へのアプ ローチは、「外在的」あるいは「超越的」なものであってはならず、徹して人間に即した「内 在的」なものでなくてはならないとして、「内在的普遍」ということの重要性を訴え、多く の識者の賛同をいただきました。 牧口初代会長が「人生地理学」で提示した  「内在的普遍」のアプローチ  イデオロギーや貨幣の普遍性とは、まさに「外在的」「超越的」普遍性であり、「抽象化 の精神」の産物なるがゆえに、具体的存在としての人間や社会を蚕食してやまないのであ ります。私の申し上げる「内在的普遍」とは、その対極に位置しており、徹して具体性の 世界に根を下ろし、その内側からのみ探り当てることが可能となるであろう普遍的な視座、 理念のことであります。  課題は身近にあります。身近で具体的なところにこそあります。一昨年来、日本ではド ストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』(亀山郁夫訳、光文社)がベストセラーになり、 話題を呼びましたが、その中で、無神論者の次兄イワンが、弟のアリョーシャにこう語る 場面があります。  「どうすれば身近な人間を好きになれるのか、おれはいちどだって理解できたためしが ないのさ。おれに言わせると、身近な人間なんてとうてい好きになれない、好きになれる のは遠くにいる人間だけ、ってことになる」と。  もとよりこれは逆説であって、愛を論ずる場合、遠い抽象的な対象に対してならば、さ したる抵抗感もなく、口にすることができる。しかし、身近な者、とくに自分とそりの合 わない人間となると、そうはいかない。そういう人を愛するには、極論すれば山上の垂訓 =注3=に象徴されるような全人格を賭した精神的格闘、魂の回心劇を要するはずだ。身 近な「一人」とは、その意味で人間愛や人類愛の真価を問う試金石であり、リトマス試験 紙なのである──イワン一流の逆説であり、皮肉であります。「抽象化」を待ちうける落と し穴であって、仏典では「一人を手本として一切衆生平等」(御書564ページ)と、その 点を厳しく戒めているのであります。 第34回「SGIの日」記念提言 上−4に続く 2009年1月26日 聖教新聞 第34回「SGIの日」記念提言 上  大老・土井利勝にまつわる故事  その意味からも、私は牧口会長の『人生地理学』(以下、『牧口常三郎全集第1巻』第三 文明社。現代表記に改めた)の方法論、アプローチに着目したい。呼称からしてユニーク であります。「自然地理」や「人文地理」に比べて、「人生地理」という語感は、はるかに 具体性の世界のリアリティー──政治、経済、社会、文化、教育、宗教など人間生活万般 にわたる厚みと深さと広がりを含意しております。牧口会長が執筆のモットーとして、吉 田松陰の「地を離れて人無く人を離れて事無し、人事を論ぜんと欲せば、先ず地理を審に せざるべからず」との言葉を掲げている所以であります。  さらに、最も刮目すべきは、具体性の異名ともいうべき地域性に、徹して軸足を置き、 そこを抜きにしていかなる地平も展望も拓けてこないとする「内在的普遍」のアプローチ であります。その中に次のような一節があります。  「広大なる天地の状態は、実に此猫額大の一小地に於て其大要を顕わせり。されば万国 地理に現わるる複雑なる大現象の概略は、粗ぼ之を僻陬の一町村に於て説明すること難か らず。既に一町村の現象によりて郷土の地理を明にせんか、依て以て万国の地理を了解す ること容易なり」と。  たとえ猫の額ほどの「小地」であっても、その地域性にこだわり、そこに生き、観察し、 解明していくならば、そこから一国ひいては全世界の事どもの考察へと広がっていく、と されているのであります。  牧口会長は、その広がりをあくまで具体的事例に即して、次のような江戸時代初期の政 治家・土井大炊頭利勝にまつわる故事を紹介しております。  ある時、唐糸の切れ端が落ちているのを大炊頭が見つけ、ある家来に預けておいた。た かが糸屑、と笑う者も多かった。何年か後、その家来に存否を尋ねると、大切に保管して あった。大炊頭は、その功を多として300石を加増して、周囲にこう諭した。  ──この糸は、唐土(中国)の農民の手にて桑を取り、蚕を飼い養い、糸となし、唐土 の商人の手にわたり、はるかの海上を経て、わが邦へ渡り来たり、長崎表の町人の手にか かり、さては京大阪のものども買い取り、ついに江戸まで下り候ものなれば、その人力い かばかりかとおもうぞ。さようの辛労にてできしものを、少しなればとて、塵芥となして すつるというは、天道のとがめ、おそるべき事なり、と。  唐糸の切れ端から、遠く唐土の桑畑で働く農民の労苦ヘ──まさしく「内在的普遍」そ のもののアプローチといえましょう。一足飛びに「大現実」へと飛躍するのではなく、身 近な「一小地」という具体的世界に足を踏まえ、そこに徹し、こだわり抜くことによって 「大現象」へと自在に連想をめぐらせてゆく。こうした瑞々しい想像力というか生活感覚、 生命感覚の人にとって、近しい人はもとよりのこと、見ず知らずの異国の住人であっても、 否、風土、産物さえもが、親密な「隣人」としてあるにちがいない。その彼にとって、人 間や国土を殺傷し破壊し尽くす戦争など忌むべき存在以外の何物でもなく、最も縁遠いも のであるはずです。  身近な地域を足場に世界へ思いをめぐらす  「健全な生命感覚」の復権を  話は少々飛びますが、日露戦争の頃のエピソードを一つ紹介したい。  ある日、ロシア人の捕虜が二人捕らわれてきた。初めてのことで珍しかったため、見物 にいこうということになったが、反対する者もいた。そこで中隊長が理由を尋ねたところ、 ある兵士がこう答えた。  「自分は在郷のときは職人であります、軍服を着たからは日本の武士であります、何処 のどういう人か知りませぬが、敵ながら武士であるものが運拙く捕虜となって彼方此方と 引廻され、見世物にされること、さだめて残念至極でありましょうと察せられ、気の毒で 耐りませんから自分は見学にいって捕虜を辱しめたくありません」(長谷川伸『日本捕虜志』 上巻、中央公論社)と。  ルーマニアのブカレスト大学での講演(1983年6月「文明の十字路に立って」)で言 及したものですが、この兵士の感受性のベースになっているのは、職人としての生活感覚 であります。その健全なる生活感覚、そこに宿るヒューマニティーが、敵である異邦人を、 マルセルいうところの「隣人」たらしめている。  戦争を肯定する訳では毛頭ありませんが、大地に根を下ろした強靭なる人間性の凱歌の 証しは、"時"と"場所"を選びません。  流刑囚を「罪人」扱いせず、「不幸な人」と呼んだシベリアの民衆の人間愛を、ドストエ フスキーは生き生きと描き出しています(小沼文彦訳『ドストエフスキー全集第4巻』筑 摩書房)が、彼らシベリアの民にとっても、流刑囚は、悪人でも忌むべき存在でもなく、 あくまで「隣人」なのでした。  人間不在の転倒を乗り越える道  まず身近な具体的なところから始まり、一歩そしてまた一歩と、四囲を「隣人」たらし める人間連帯の間断なき構築作業──ここに平和への王道があり、この地道な積み重ねな くして、恒久平和の地平など望みうべくもありません。  そうした感受性、生活感覚の共有こそ、「内在的普遍」ということの内実なのであります。 マルセルいうところの「抽象化の精神」に毒されることのない具体性の世界の実相なので あります。そして、そのような精神性、ヒューマニティーの潤しゆくところ、「抽象化」の 病理は駆逐され、「イデオロギー」によって「人間」が、「目的」によって「手段」が、さ らには「未来」によって「現在」が......約めていえば「抽象的存在」によって「具体的 世界」が犠牲にされ、生贄にされるような人間不在の転倒は、決して起こらないにちがい ない。  そこに立ち現れてくるのは、「貨幣」のような抽象的かつ非人称的な存在が、わが物顔に 振る舞う社会ではなく、「生命」や「人間」といったバーチャル(仮想的)ではない真実の リアリティーにスポットが当てられる、ヒューマニティー溢れる時代であり、世紀である と、私は確信してやみません。     (下に続く) 「SGIの日」記念提言 語句の解説  注1 メドゥサ  ギリシア神話に出てくる3人姉妹の怪物ゴルゴンの1人。頭には髪のかわりに蛇が生え るという醜怪な容貌で、目には人間を石にしてしまう力があった。英雄ペルセウスはメド ゥサを見ないようにするため、磨いた盾にその姿を映しながら近づき、首をはねた。  注2 プロレタリア国際主義  プロレタリアート(労働者階級)の利害は国境を超えて一致し、国際的に団結しなけれ ばならないという思想。しかしソ連が、1968年のチェコスロバキア侵攻や79年のア フガニスタン侵攻を、その思想の名のもとに正当化して理念的に失墜し、その後、冷戦構 造の崩壊で体制的にも終焉した。  注3 山上の垂訓  新約聖書「マタイによる福音書」の第5章から第7章に記されたキリストの教え。「右の 頬を打つような者には、左の頼も向けなさい」「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈り なさい」「自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」などめ教えが 説かれている。 第34回「SGIの日」記念提言 上〔完〕