2009年1月29日付 聖教新聞 池田名誉会長の人物紀行 歴史の巨人と語る 英国の不屈の宰相 チャーチル 1 最後の勝利は我々のものだ!!  英国の不屈の宰相チャーチル  「我々は絶対に屈服しない。最後まで勝利に向かって前進するのみだ!」  新聞の写真に写ったその人の瞳は、不敵なまでに強靭な信念の光線を放っていた。  1940年(昭和15年)6月、ナチスに対する英国の徹底抗戦を報じた記事である。  私は12歳。新聞少年であった。第2次世界大戦の真っ只中である。戦局の推移を告げ る新聞を待ちわびる家々に、少しでも早く届けるのだと、毎朝毎夕、真剣であった。  その日、配達した新聞は、フランスの降伏によって、欧州の戦況がイギリスに圧倒的不 利となったことを告げていた。絶体絶命の危機である。にもかかわらず、写真の人物の眼 差しには落胆の影など微塵もないっ  その人の名はウインストン・チャーチル。時の英国首相、65歳であった。  受け継いだ「迅速」  時は巡り、1972年の新緑輝く5月10日。オックスフォード大学を訪問した帰途、 私はチャーチルが産声を上げたブレナム宮殿を訪ねた。  周囲20キロの広大な緑の中に、バロック様式の石造りの建物が、目にも鮮やかに浮か んだ。  敷地内に屹立する塔の頂には、チャーチルの祖先マールバラ公ジョン・チャーチルの像 があった。近代ヨーロッパの希代の名将と呼ばれた人物である。  その強さの要諦は、疾風迅雷の機動力にあったという。予想を遥かに超えた電光石火の 勢いで、常に激戦を制した。  後年、子孫であるウインストン・チャーチルも、「迅速」をモットーに指揮を執った。「速 攻こそ最強の武器なり」。これは、世代を超え、国を超えた、勝利の鉄則である。  断じて負けるな  プレナム宮殿を訪れたのは、大歴史家トインビー博士と最初の年の対談を終えた翌日で あった。ロンドンの御自宅での語らいは、翌年も続いた。  席上、博士が語っておられた言葉が常に思い出される。  「人生の勝負は、長い目で見なければわからない」  その例として博士が挙げたのが、チャーチルであった。  チャーチルが"優等生"でなかったことは有名である。名門のパブリックスクール「ハロ ー校」に在学中、成績は、いつも最下位を争っていた.。  だが大好きな文学では、力を磨きに磨き、賞を勝ち得た。  青年は「これだけは負けぬ」という一剣を持て! これは、わが師の励ましでもあった。  "落ちこぼれ"扱いされたチャーチルは、後に第2次大戦のさなか、一国の首相として懐 かしい母校に凱旋する。  彼はステッキで床をたたいて、愛する後輩たちに訴えた。  「断じて負けるな。断じて屈するな。断じて、断じて、断じて、断じて」(鶴見祐輔著『ウ インストン・チャーチル』講談社現代新書)  私も、この箴言を宝の創価学園生に贈ったことがある。  「どんなことでも、大きいことでも、小さいことでも、名誉と良識とが命ずるとき以外 は、断じてゆずるな」(同)  独裁者ヒトラーが侵略の猛威を振るう渦中である。未来を担う英才たちへの激励は、そ のまま自身と英国へのエールであったにちがいない。  20歳から25歳まで  チャーチルの20代前半は生涯で最も波瀾万丈であった。  キューバ、インド、エジプト、南アフリカと、四つの戦争に従軍。事故、戦闘、捕虜な ど幾度も死線をかいくぐった。  最初に挑戦した下院選挙も、落選である。  激動の時代、彼は「学ぶ」ことに目覚めた。哲学、政治学、経済学......。英国が誇る 二大史家ギボンとマコーリーの書は暗記するほど精読したという。  逆境での精神闘争は、彼の頭脳と文筆を錬磨した。やがて時の首相も絶讃するベストセ ラーを上梓したのである。  「艱難に勝る教育なし」  私の20代前半も、そうであった。師匠・戸田城聖先生の事業が失敗。莫大な負債を抱 え、債権者が押しかけた。私は一人、一切の矢面に立った。結核を患いながら、自らの命 に代えても、先生をお護りし抜いてみせる。そして、必ず第2代会長になっていただくの だとの覚悟であった。「ただ師のために」と、わが一念に億劫の辛労を尽くした一日一日で あった。これほどの美しき師弟の歴史はあるまいと、私は深く深く誇りを抱いている。  チャーチルは訴えた。  「青年よ、満天下の青年よ」「諸君は人生の戦線に立たねばならない。二十歳から二十五 歳まで──この間が華なのだ。けっして現状に安んずるなかれ」(中村祐吉訳「わが半生」、 角川書店『世界の人生論5』所収)  まさに今、この年代のヤング青年部が、弾けるように、走り、語り、戦い、鍛え、連帯 を広げている。ここに未来の勝利の光明がある。  タプローの植樹  ロンドン郊外の丘陵に立つ、私たちSGI(創価学会インタナショナル)のタプロー・ コート総合文化センターには、チャーチルが植樹した杉がある。壮麗な並木道の中で、独 特な枝ぶりが、ひときわ目を引く。  チャーチルが、この木を構えたのは、1938年6月26日のことであった。  育つほどに枝を下へと伸ばしゆく姿から、通称「泣き杉」と呼ばれる品種である。  植樹の際、彼は「この木は今の私の心情を表している」と語ったと伝えられる。  当時、チャーチルは不遇の時代にあった。33歳の時に商務長官として入閣して以来、 重要な責務を歴任してきたが、この10年は、どの内閣にも迎えられていない。落選も繰 り返していた。  増大しっつあるナチスの脅威に警鐘を打ち続けても、優柔不断な議会からは笑殺された。  チャーチルの時代は終わった。誰もがそう思った──。  その中にあって、一人、チャーチルは真剣に、時代に蔓延する"事なかれ主義"を憂慮し ていた。  要するにチャーチルは、わが身の不遇を嘆いたのではない。祖国と世界の前途を憂い、 「泣き杉」を植樹したのだ。  この植樹から5年後の6月。日本の軍国主義の嵐の中、チャーチルより3歳年長の牧口 常三郎先生は師子吼された。  「一宗が滅びることではない、一国が滅びることを、嘆くのである」「今こそ、国家諌暁 の時ではないか! 何を恐れているのか!」と。  それは、時の権力に迎合して、日蓮大聖人の「立正安国」の大精神を捨て去った邪宗門 への悲憤であった。今年は、この先師の殉教から65年──。  歴史の館タブロー・コートの庭園には、私たちが植樹した牧口先生の「正義桜」の木も ある。チャーチルの「泣き杉」とともに、風雪に負けぬ不屈の根を張っている。  朝は必ず訪れる  チャーチルの危倶は的中した。傲れるナチスはヨーロッパの版図を次々と塗り替え、英 国は孤立無援に陥った。  1940年の5月、この火急の難局に、首相として命運を託されたのが、チャーチルで ある。  彼は火を吐く弁論で、国民の士気を鼓舞した。  「われわれの目的はなんであるかとお尋ねになるならば、私は一言でその間に答えまし ょう──勝利、この二字であります」(ロバート・ペイン著、佐藤亮一訳『チャーチル』文 化放送)  「朝は必らずめぐってきます。勇敢で、真実である者の上には、太陽は必ず輝きましょ う」(同)  声は力だ。声は命である。いざという時の「確信の声」の響きほど、強いものはない。  空襲で破壊された市街地を、チャーチルは獅子の如く回り、市民を励まし続けた。  試練に立ち向かう指導者の絶対不可欠の要件は何か。  トインビー博士は「勇気」と「自信」を自他共に奮い立たせる力であると結論された。  チャーチルのリーダーシップがそうであった。  とともに、彼には、執念の持久力が漲っていた。「油断は大敵」と常に心を引き締め、追 撃に追撃を重ねて、ついに勝利を飾ったのだ。  富士の如き信念  チャーチルは、富士山に憧れていた。明治の日本を訪れた最愛の母から、その美しさを 聞かされていたのである。  晩年の自宅には、吉田茂総理から贈られた富士の名画が大切に飾られていたという。  嵐に揺るがぬ不動の信念で戦い抜いてきた指導者の心には、王者の風格の富士の雄姿が、 友のように映ったにちがいない。  私は、富士を擁する山梨県や静岡県の同志によく語る。  「富士を仰ぎ、富士と語りながら、富士の如く生きる──本当に幸福な人生です」  チャーチルも笑みを浮かべ領いてくれることであろう。      ◇  チャーチルが回想録で、「最も輝かしい時」と銘打った時代がある。それは、ナチスとの 戦いが最も若しかった試練の時のことである。  最悪の逆境にこそ、最高の栄光の歴史を創るのだ。  最大の強敵こそ、最強の底力を発揮させてくれるのだ。  仏法では、「難来るを以て安楽」と説かれている。  いかなる無情の現実にも、「何はともあれ必ず勝つ。勝利こそが我らの天命なり」と深く 固く心を決めることだ。  リーダーの「絶対勝利」の金剛の一念から、歴史は動き始める。  わが壮年部の広布の戦友たちよ! 我らもVサインを掲げながら、悠然と名指揮を執る のだ。チャーチルの和く!  「さあ、勇気を奮い起こそうではないか! 最後の勝利は我々のものだ」  本文中に明記した以外の主な参考文献=ウインストン・チャーチル著『第二次大戦回顧 録』毎日新聞社、河合秀和著『チャーチル』中公新書、友清理士著『スペイン継承戦争』 彩流社、吉田茂著『回想十年 第四巻』東京白川書院、関榮次著『チャーチルが愛した日 本』PHP新書、アーノルド・J・トインビー著『日本の活路』国際PHP研究所  チャーチルの写真はc UnderWood&Underwood/CORBIS ??????? 池田名誉会長の人物紀行 歴史の巨人と語る 1 〔完〕 ?